前に
目次へ
次へ
最初に紹介しましたが、 これまでの土木工学の見方では、 低平地は低湿軟弱な地盤であり、 洪水、 排水、 水不足、 水質問題などを抱えた「不完全な陸地」「忌避されてきた未利用地」と考えられています。 それを技術的に改善しなければいけないという立場です。
しかしヨーロッパや東南アジアには、 家舟や水上ハウスなど、 水辺と一体となった住み方があります。 日本にもまだ舟家があります。 陸から見た視点で考えると異端であったり、 価値を持たなかったものを、 水という視点から考え直してみるとどうなるかが、 私の最大の関心事です。
古代の我国の呼称は『豊芦原中国(とよあしはらなかつくに)』『秋津島』『瑞穂の国』でした。 瑞穂は稲のことで、 稲がよく実る国ということです。 弥生時代の人々は稲作を持ち込みましたから、 稲が国の象徴と考えられたのは良く分かります。
しかし、 豊芦原はアシやヨシが繁っている原ですから「芦原が素晴らしい我国である」という感じです。 秋津は一説にはトンボのことですが、 トンボも水辺に生息します。
縄文時代には、 現在の平野部は大部分が海に沈んでいました。 弥生時代になって気温が下がり、 水位が下がって平地ができて、 一面にアシが生えてきたと思われます。 この時代の人たちには水草がたくさん生えていて水が多いところが「いいところ」という環境イメージがあったのではないかと思います。 そこに我々の環境イメージとの断絶があります。 こういうことを指摘している人はいません。
日本書紀や古事記、 万葉集を見ると、 浜、 津、 浪などの言葉がたくさん出てきます。 水田や陸地ではなく、 古来から水とのかかわりが深い生活があったことがうかがえます。 佐賀
水辺と共にある生活
佐賀は筑後川の運ぶ土砂でできました。 世界最大級の7mもの干満差のため、 砂州がありません。 大潮のときには水を被ってしまう低平地です。 浅海干潟とも呼ばれ、 メコンデルタや中国江南地方の干潟と同じような漁業も盛んです。
|
| 成富兵庫による石井樋の設計 |
左側が嘉瀬川の本流で、 ここから別れて多布施川が城下の方へ流れていきます。 この図の中で、 「内土井」「本土井」「遊水地」といった記述がみられます。 これは、 内側は低い堤防、 外側は高い堤防となっていることを示しています。 洪水が起こりそうなときには、 とりあえず内側の堤防で抑えて、 それを超えても次は本土井で抑えるという仕組みになっています。
今の我々の土木の技術は完全に二元論的で、 人間が使う土地と河川とを分けて、 そこに堤防を立てて、 右と左をはっきり分けるということをやっています。 江戸時代ですから、 今のような技術力やお金があったわけはありませんので当たり前なのですが、 水と対決してねじ伏せようとするのではなく、 そのエネルギーをいかに弱めて治めていくかが考えられています。 今の日本は洪水が起こってはいけないものだと思っているわけですが、 江戸時代は「照れば干ばつ、 降れば洪水」だったのです。 戦前までは、 日本人は洪水とつきあいながら生きてきたわけです。
|
佐賀の都市構成を見てみますと、 真ん中に城があり本丸があります。 図で点々のアミで書かれているのが堀です。 十間堀川と呼ばれていますが、 北側に向いて外堀になっています。 他の都市では内堀、 外堀、 その中間など二重にも三重にもなっていますが、 これは単純明快な構成になっています。 これがどんどんとなくなっているわけです。
| ||
|
土木的な見方、 機能論的に見ると水路は水が流れればいい所ですが、 先ほども申しましたが水路は祝祭空間、 文化的空間、 レクリェーションの場などの様々な意味を持っています。 さらに日本では水は結界、 場所と場所を分け隔てるところという概念が文化の中に深く根付いています。 たとえばお祭りの時、 神社に縄を張りますが、 あれは聖域と俗を分ける結界です。 佐賀だけではありませんが、 佐賀の主要なお寺や神社には堀が張り巡らされていて、 そこに太鼓橋があります。 これは左側の境内と右側の俗の世界を水で区分しているわけです。 もしお堀がなく、 道路とくっついて境内があったら、 そのままずるずると世俗の世界から入ってしまう感じになります。 それに対する一つの空間的な区切りになっているのです。
| ||
|
城内の松原川です。 なかなかよく整備されていると思います。 水にともなう川神祭りなどがあり、 河童信仰もあって、 堀にも河童がいっぱい置かれています。
| ||
|
佐賀が水郷の地であったということがこの水車で分かります。 これを踏んで田んぼに水を入れたわけですが、 こういうものも昔の面影を感じさせます。 一方、 まちのあちこちには恵比寿さんがあります。 恵比寿さんというのは商売の神様ですが、 それ以前に漁業の神様だったわけです。 お地蔵さんではなくて恵比寿さんということは、 つまり、 この地が昔から水運に深く関わっていた証拠だと思います。
| ||
|
城下に入ってきた多布施川の水は、 東西方向に分かれて背割り水路となっています。 大阪では背割り水路は排水路として使われていますが、 佐賀では上水として使われています。 したがって台所は水路側にあって、 みんなここでお茶碗を洗ったり水を取ったりしていたわけです。
| ||
|
江戸の末期、 城下町にはたくさんあった水路網が、 今はずいぶん減っています。 これについてはおもしろいことがあります。 ここは、 江戸時代もともと水路だったところが、 不法占拠からはじまって既得権化して、 宅地として認められている場所です。
| ||
|
これは水路の上に建ったお店です。 洛中洛外図で見ると、 中世末期の京都でも水路の上にこのようにお店があるわけです。 官と民で言うと、 民が公共空間に滲み出してくる。 大阪でも自動販売機や屋台が道にはみ出ています。 道頓堀のお寿司屋さんや焼き鳥屋さんも、 もともとは公有地だったところに幅1mぐらいのお店をつくっていったという話もありますが、 そういうことがそこら中で見てとれます。
| ||
|
これは真ん中に街灯のある橋ですが、 その両側から家がはみ出てきています。 そのほか、 水路のうえにお店が完全にのっている、 つまりまるっきり土地を持っていないところにお店を建てている例もあります。 こういう状態で佐賀の水路が失われていっている、 というわけです。
|
|
土木は、 陸の世界と水の世界という二元論的な議論でやっています。 これは干潟と陸地を分ける防潮堤ですが、 まさにその巨大で普遍的な世界観がはっきり見てとれるわけです。
| ||
|
しかし、 無粋なコンクリートの構造体ではいけないというので、 県民に絵を描いてもらうような施しをしているわけです。 ここからは土木事業でどんな工夫をしているか見ていきますが、 せいぜいこの程度のことをやっている状況です。
| ||
|
これは城下町の北側にある水路です。 石の化粧版、 非常に薄い石を貼っていますが、 じつは洗い出しという磨いた石を張っています。 室内では磨いた石は使いますが、 なぜ外の水路に磨いた洗い出しの石を貼るのでしょうか。
| ||
|
土木屋さんのデザインは良く分かりません。 これは親水護岸をつくっているのですが、 安全柵があります。 これもなんとかならなかったのでしょうか。
| ||
|
これは、 感潮河川の水が上がってきているところです。 散策路としてはまあまあのところですが、 この左手の自然植生が残っているところも同じように整備されています。 ここでは一時、 反対運動がありました。 自然植生を残してほしいというのと、 土木事業的に進めようというところでぶつかり合いがあったのです。 一定の評価はできるけれども、 そのような問題をまだなお抱えているということです。
| ||
|
これは先ほども出てきた松原川ですが、 さまざまな賞をとっています。 堀も道路も自然石を使っていて大変立派にできています。 佐賀で最もお金がかかっていて批判も受けたのですが、 成功した事例ではないかと思います。
| ||
|
集落の周辺の水路の多くは、 農業土木では排水路と位置づけられています。 灌漑用水路ではなく排水路なので、 流量と傾斜から計算しますと断面が決まります。 材料はコンクリートと決まっていました。 そういう構造でした。 何とかならないのかということで、 私もお手伝いをしてまず調査をしました。
| ||
|
これは自然植生を使ったり、 板柵で土留めをしているところです。 私のところに相談に来たので、 私が勝手なスケッチをしたところ、 何の相談もせず、 私が現場に行くこともなくどんどん出来上がってしまったというところです。
|
|
最後にもう一つ。 やはり水辺空間は子供たちの遊び場でありお祭りの場所です。 これは先ほどの松原川です。 子供が河童の格好をしていますが、 これは「ひゃーらん祭」です。 「ひゃーらん」は佐賀弁で「入りません」という意味です。 つまり、 子供たちが水路にいると水難事故が起こる時があるので、 河童がいて『へのこを抜くぞ』とか『水の中に引き込まれて溺れてしまうぞ』というわけです。 だから年に一回、 供物を与えるということでやっているお祭りです。 水辺空間がこうした楽しい空間になるのです。
|