水と都市の環境デザイン
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大東市

 

水郷の里

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6、7世紀ごろの河内付近
 ここからは私が現在勤めている大阪産業大学のある大東市について見ていきます。

 これは大阪の6、 7世紀の頃の地形をあらわしたものです。 大東市は、 この図でいきますと右中央ぐらいになります。 縄文時代はおそらくこのあたりは全部海だったと思いますが、 上町大地から砂州ができ、 だんだん陸地化していきました。 それでもなお内陸に湖があり、 水の内ということで大阪のこのあたりを河内と言うようになったというのが通説です。

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中世末期の大阪
 この図には石山本願寺がありますから大坂城ができる前、 中世末期です。 寝屋川あたりまで水域が入り込んでいて、 河内には大きな池がありました。 大和川も平野川に合流し、 河内に流れ込んでいたのですが、 元禄の時代に全部付け替えて田畑にしました。 そうした新田開発が進んで出来上がったのが今の大東市や東大阪市一帯です。

 このように江戸時代、 新田開発で栄えたこの辺りでもっとも有名なのが鴻池ですが、 鴻池新田にはその頃の会所が残っています。

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河内名所図会
 ところで大学がある野崎は、 大坂からいうと近郊農業地であったのですが、 同時に近郊の娯楽地でもあったのです。

 野崎参りというのは大変楽しかったようです。 河内名所図会を見ると「野崎参りは屋形船でまいろ。 どこを向いても菜の花ざかり」とあり、 桜、 菜の花、 紅葉などの頃に、 老若男女が川舟や陸地から野崎参りに行っている様子が描かれています。

 おもしろいのは、 上流に上がってくるということもあって船を引いている人がいるんですね。 ここにも「あるは川舟に棹さして、 道行く人と言葉戦ひして」と書かれていますが、 つまり、 ひやかすんです。 普通はお参りした後、 飲み食いするんですが、 ここに描かれているのは酒樽です。 観音様にお参りする前にもう飲み食いをはじめているようです。


失われた文化

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寝屋川筋鴻池の樋門付近(原写真住道・角谷氏蔵)
 「すみのどう」を、 今では「住道」と書きますが、 もともとの名前は「角堂」(スミノドウ)と呼ばれるお堂が建てられたのが、 もともとの由縁です。 ここは昔は水郷の里でした。 明治、 大正、 昭和の初期ぐらいまでは、 お米だけではなく、 なたね油や綿花の産地でしたが、 それらを水運で運んでいたのです。 昔の写真にはたくさんの小舟が写っています。 じつは水と非常に縁のある場所だったのです。

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現在の「角堂」の状況
 われわれがつくった近代というのはこういうことなんです。

 もっとも大東市は水害で困っているわけですから、 水害をいかに防ぐかが大切でした。 大変高い堤防を垂直に立てています。 合理的です。 しかし、 文化や、 水辺とのふれあいはここからは一切感じることができないわけです。

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角堂のお堂
 角堂のお堂がとても小さくなってしまっています。 三大海神である住吉さんをお奉りしているところです。

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住道の水路
 日本のまちは写真になりにくい場所ですが、 私は住道の水路には逆の意味で感心しています。 コンクリートの円形の矢板だけででき上がっています。 お金もかかりません。 寸法もいちばん合理的につくられています。

 経済大国の日本がつくり上げたわれわれの国土づくりは、 先ほどの江戸時代の楽しげな場所をこのように変えてきたということです。 20世紀が選んだ環境デザインの一つの典型なのです。

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小さな河川の垂直護岸
 大東市は小さな河川も同じような垂直護岸でつくっています。 しかし、 これは緊急に水害対策でやったんだから、 仕方がないんだと言われるかもしれません。

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