難波(兵庫県):
佐賀県の話の中で圃場整備のことが出てきましたが、 それについて何か見解をお持ちでしたらお聞かせ下さい。
金澤:
圃場整備をするのはいいのですが、 私が残念なのは、 全面的に田圃景観を変えてしまい、 昔の景観を残せなかったということです。 昔、 自分たちがそこで泳いだ、 魚取りをした、 そんな思い出のある景観をなぜ大切にできなかったのでしょうか。
昔、 佐賀の農村のあちこちに馬洗場(マアライバ)がありました。 そこでは農作業に使った馬を洗うだけでなく、 人間も一緒になって水浴びをしました。 馬洗場は佐賀の人たちにとって、 とても重要な原風景だったはずなのです。 私はそれを求めて農村を探し回ったのですが、 21箇所の集落で残っていたのは2箇所だけでした。
馬洗場や川神祭りをする水路、 神社の回りのお堀など、 人々の原風景になるようなものをなぜ残せないのでしょう。 お堀も今では埋めたてられた場所が多く、 今ではその痕跡すら残っていないところが多いのです。 私に話をしてくれた人は、 まだ自分の中に思い出が残っているからいい。 しかし、 孫子の代になると一切合切忘れ去られる状態なのです。
近代は合理性や経済性、 普遍性で動いてきて、 何もかもそれで計算し尽くそうとしてきましたが、 そこには遊びやゆとりがありませんでした。
近代化や圃場整備の全部が悪いとはもちろん言いませんが、 あえて言うとすれば、 なぜ集落の原風景について、 住民と話し合ったりアンケートを取ったりせずにつくったのかということです。
私達は今だけに生きているんじゃない。 都市計画とは「未来の暮らしを形づくること」で、 私達の視線は未来も含んでいないといけないということです。 もっと言うと、 孫子の代にどんな環境を残すかを考えることが都市計画のはずなんです。
橋や道路をつくったり干拓地を広げたりすることは、 今の我々の経済原則による判断でつくっています。 しかし、 都市計画は数十年かかるのが普通です。 ですから、 都市計画が「今の経済状況を活性化させたい」などという判断や、 今の農業生産を上げるために圃場整備をするという判断だけで決定されるのは大いに疑問を持っています。 それよりも「おじいちゃんはここでこんな風にして遊んだんだよ」と孫に言える場所をつくる方が、 有意義な場合もあるんじゃないでしょうか。
よく、 現代人の疎外感が問題視されます。 都市の中の少年犯罪、 特に神戸の事件の時などはそれが新興住宅地のありようと関連性があると指摘されました。 個性のない新興住宅地、 全く同じ形の学校建築、 こうした画一的な計画でつくられた景観の中での人間疎外を指摘する人は多いようです。
こういうことを聞くと、 人間は人と人との絆だけでなく、 環境との絆も大切だとつくづく思います。 例えば、 自分の通っていた小学校が建て替わったり、 自分の通っていたお店がなくなったりする。 あるいは再開発で自分が住んでいた所から追い出されて、 違うまちで暮らし始める。 そうして自分の環境との絆を失う傷みや不安を、 私達は今まで軽視してきたのではないでしょうか。
原風景は文学的な表現で、 学校の先生の甘っちょろい話だという人もいますが、 私はそうは思いません。 もっと人間の根元的な問題として、 我々の環境との絆になっているんです。 断ち切られるとつらい。
外国のまちに初めて旅行したときや滞在した時のことを思い出して下さい。 最初は不安でしょうがない。 それは、 まだまちとの絆が出来ていないからです。 でも、 慣れてくると居心地がよくなる。
つまり、 環境との絆を断ちきるということは、 安心して暮らせる基盤を失うということです。 近代は、 そのことをあまりに軽視してきたと思います。
圃場整備の問題点―環境との絆について
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