「緑としての建築」は、 都市環境の「遺伝子治療」という視点に立った、 「緑」としてデザインされた「スケルトン」に建築がインフィルされた、 新たな都市構成要素の概念であり、 建築を建てることが即緑を造出することとなる建築である。 「スケルトン」としての「緑」は、 社会的環境ストックを形成し、 都市における物理的、 生態的環境維持の基盤を形成する。 ただし、 建築の耐用年限、 耐久年限という問題があるので、 長期的なストックにはなりえない。 したがって、 長期的ストック形成のためには、 都市計画レベルでの対応が不可欠となることは、 改めていうまでもない。 また、 「スケルトン」の緑は社会的に「開放」されることによって、 緑の活用、 管理等を通じてコミュニティー再建の契機となることも期待される。 「緑としての建築」は建築的に見れば、 植物と言う「生きた」素材を構成要素とする建築であり、 無機的、 機械的な系と有機的、 生物的な系の複合体としてイメージされる。
生態的に見れば、 文字通り「生命体」にインヴォルヴされた空間であり、 人と他の生物が「一緒に」暮らす建築である。 「緑としての建築」の具体的形態はおそらく多様であるが、 基本的には環境とのインターフェースを作り出す「緑の外皮」を持つ建築であり、 その生きた植物によって構成された外皮(vio clading)は、 蓄放熱の低減や熱負荷の低減等による、 都市の「ヒートアイランド」化の緩和といった「物理的環境維持」の働きを持つ。
言うまでもなく、 植物は無機的な建築材料とは異なり、 「生きている」。 植物を植えるということは、 生き物をそこに「招き入れる」ということであり、 共に暮らすことを「呼びかけ」ている事である。 そしてその植物がまた他の生き物(招かれざるものもあるにせよ)を招きいれ、 様々な生き物が共に暮らす「コロニー」が出来上がる。 「緑としての建築」は都市がそのような「コロニー」の集合体として形成され、 都市の生態系が維持されることを期待している。 「緑としての建築」は「田圃」のような建築である。 田圃は本来稲を栽培するための施設であるが、 田圃が生み出す環境を拠り所とする、 多くの生き物を呼び寄せ、 豊かな生態系を形成してきた。 そしてその生態系は、 人間にとっても豊かな環境となっていた。 「緑としての建築」は、 そのような豊かな生態系を都市に呼び戻すための、 拠点および回廊としての役割を果たす。
さらに、 緑は人と環境を結びつける様々なレベルでのインターフェースを形成する。 生き物と接し、 生き物を育むことによって、 環境への関心と愛着が生まれ、 人々が環境により積極的に関わるようになることが期待される。 そしてそのことにより、 今日の専門化され、 工業化され、 疎外された環境を、 より身近なものとして受け止める事ができるのではないかと思われる。 また生き物をは育むと言うプロセスを多くの人々が共有することによって、 人と人の結びつきがより豊かなものになることも期待される。 そしてこのことは、 環境とは「出来合いにもの」を金を出して買うものではなく、 生活者自らが作り出すものである、 という原点に立ち返るためにも、 重要なことであると考えられる。
2。 「緑としての建築」とは
このページへのご意見は中村伸之へ
(C) by 都市環境デザイン会議関西ブロック JUDI Kansai
学芸出版社ホームページへ