緑としての建築
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記録

 

壁面緑化はインフラになりうるか−緑そのものがストックとなるか。

 
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giustinian palace .venice 出典living in venice,flammarion
 
 ●(ヴェネツィアやサンフランシスコの壁面緑化の写真を見ながら)建築に絡んだ緑あるいは緑に覆われた(古い)建築が、 市民に親しまれ社会のストックとして評価される事もあるし、 内部がリニューアルされても、 外側の緑は継承される。

 緑がインフラとなりスケルトンとなるストーリーはありうるのではないか。

 ○インフラの定義は? 僕は極めてオーソドックスにまずは都市構造をつくるもの、 道路、 大きな公園とかをイメージするが・・・
 日本の建築はインフラではないが、 ヨーロッパの建築はインフラに近い。 街区が建築でできているという意味で、 日本と比較すればそれはもうインフラといっても構わないほど都市構造と一体になっている。

 ヨーロッパでは街区がシステムとして(内部に)オープンスペースを持っている、 これはインフラと言えるが、 そこに生えている樹はインフラか? そうは言いたくない。

 ●インテリアでも、 ガチガチにFIXされて動かせなければインフラと言える。

 ○町家はシステムとして建築そのものがインフラ(的な構造)を持っている、 建築の中のオープンスペースもシステムとして持っている。 だからオープンスペースはインフラと言ってもいい。

 アーバネックス中京が町家の立体化だと考えると、 坪庭を持ちながら立体化していくとそのスペースはインフラだと言える。 でも緑は違う、 ひょっとしたら枯らしてしまうかもしれないし、 植え替えるかもしれない。 もっとフレキシブルなものでしょう。 そこに良さがある。

 建築をインフラとして考えるとして、 外壁(仕上げ材)でも窓(サッシ)でも取り替えるでしょ。 窓(サッシ)を取り替えることはあるが窓そのものは無くさない。 すると窓そのものはインフラであっても窓(サッシ)はインフラじゃない
 ●そんな事言ったら、 埋設管だって取り替えるし、 道路だって拡幅するし、 断面構成も変わる。

 「物」にこだわったら、 インフラと言えども、 一つのものが持続することは無いけれどもそれが都市を支えている機能、 構造は変わらないからインフラだと言える。

 個々の緑は「物」であってインフラではないが、 緑があるという秩序がインフラだと言える。

 緑が無くなって例えば駐車場になれば、 その空間秩序はなくなる、 だから空き地があったとしても、 それイコール緑の空間秩序ではない。

 京都の町家の中庭を、 街区を支えていた都市のインフラとして再確認しよう。

 ○それに賛成できないのは「緑」といった途端に「緑なら、 鉢一つでも緑」「通り庭の片隅にある幅30cmくらいの植込みでも緑」という話になりがちで、 この亜熱帯では、 どんな貧相なところでも緑が育ち、 それで皆ホッとする、 それが僕はイヤなんだ。

 緑と言うからにはドーンと(空間を)取れ、 と言いたい。 町家で言えば坪庭であって、 通り庭のじめじめっとした緑はインフラとは違う。 置くのはかまわないし、 それを楽しんでも構わないが、 それで「緑のある都市生活」と言って満足してもらっては困る。

 ●現実に京都には多様な緑があり、 それらはそれなりの存在理由がある。

 これだけ大きな都市に、 沢山の人が住んでいるのだから、 多様な緑に対する欲求があって、 実現できる可能性の限界の中で、 このような多様な姿になっている。

 緑なら何でも良いのではなく、 皆が納得できるものがあればそれで良いのかも知れないけれど、 そんなものは無いであろう。

 ただ、 中庭の緑によって京都の都市環境問題が解決するわけではない。

 町家の中庭も1つ2つではインフラと言えないが、 町家と言うシステム自体が中庭を共通して持っていて、 それがある空間秩序で連続することによって、 京都の町の中に緑を具現化していったところに、 一つの緑のインフラと見ることができる。

 今の眼で町家を見ればそのようにいえるのではないか。

 ○そこまでは認めるが、 構造的な「坪庭の」緑とならなければインフラとならない。

 構造的に場所が確定されていなければならない。 そこに緑がなければならないが、 インフラはその緑を置く場所、 つまり「坪庭」だ。


京都の町並みは「壁」か「屋根」か

 ○僕の考えでは、個々の敷地の仕切り(塀など)が無くなって、 家屋が連続するようになって初めて「都市」が成立すると言えるのであって、 仕切りのある敷地がいくら並んでも都市じゃない。 それは集落だ。

 仕切り(塀)があれば家屋との間に庭もあるから壁は要らない。 屋根さえあればいい。

 連続すると絶対、 建物と建物の間や道路との間に壁が要る。 戸境壁の存在が特に重要だ。 戸境壁を共有して家屋が並ぶ、 つまり町家が連続するのが都市だ。 田舎では決してこの形はありえない。

 ●町家はもともと道路との間の壁が無いのでは。

 ○庇、 犬矢来、 出格子などを含めて、 僕は「壁」と言った。 正確には建築のファサードと言ったほうがいい。 建築のファサードが直接道路に面して空間を仕切るいう意味で「壁」と表現した。

 

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洛中洛外図屏風(舟木本)部分 出典 太陽86、平凡社
 
 ●京都を含め日本の建築は基本的に「屋根」だと思う。

 町家はショップハウス(店)で、 間口のところは基本的に開いている、 格子はあるがアレは壁じゃない。

 ○昔、 京都が文化的な都市になった途端に、 格子をつけて閉ざした。

 ◆応仁の乱以降、 世情が不安定になって防御のために格子を付けたという説もある。

 ●洛中洛外図を見ても中世の町家は間口いっぱい開いている、 壁ではない。

 ◆祇園祭のときは格子をカパッとはずして中を見せる。

 ●ファサードを作るシステムがあることは確かだが、 それを壁と言うか?。

 ○こういうのは(間口が開いているのは)都市じゃない。 ただの市場だ。

 ●そこに行くと議論がかみ合う 日本の都市はヨーロッパに比べると「大きな田舎」であって都市じゃない、 京都もまたそうであると言うのが僕の理解。

 ○僕は格子を持った(ファサードを持った)途端に京都が都市になったと考える。 そうじゃないと日本に都市がないことになっちゃう。 それでは僕が困るんですよ。

 ●格子だから「点線の都市」なんですよ。

 ○今、 現実に開けっぴろげの都市は作れない、 夜はシャッターを下ろさなければならない、 この時代は(洛中洛外図の世界は)都市のところまで行っていない。

 ●でも、 それも夜は必ず「しとみ」なり「大戸」を閉じているわけです。

 ○ウーン………そうですな、 それじゃあこれはもう都市になってると言えるのかな。

 ●プロテクトはやっているんだけど、 日本の場合は本来の意味の壁にはならない、 しかしファサードを作っている。

 道の空間を作るシステム、 ファサードを共有して持っていると言うことが都市の造形になってゆく、 都市である条件を「壁」と言わなければならないのなら、 京都は「都市」でなくて良いんじゃないの、 大きな田舎で良いんじゃないの 都市のバウンダリ−(境界)を見ても京都はあいまいだし、 ヨーロッパとは違う、 無理に京都に都市を見なくても良いんじゃないの、 大きな田舎に立ち帰ろう。

 ○ヨーロッパの(都市の)スタンダードの当てはめると無理がある。 どこかに共通点はないかと考えた結果が、 戸境壁とファサードなんだけどなあ。

 ●(そのスタンダードは)これからの京都を考えるときにプラスになるのか、 無関係なのか。

 ○都市は道路に直接ファサードが面していることが大事。 ではそのファサードは何なのかということが重要なテーマになる。 しかもそれは戸境壁で連続する。 そこが狙いどころ。

 ●そのファサードが緑であっていいんじゃないか。

 ○建築家は、 せっかくファサードを一生懸命考えたのに緑で隠しちゃうのかと考える。

 ●そうではなくてファサードの材料、 素材がたまたま生きた緑だったと言う具合に考えてはどうか、 都心の店構えとして考えた場合、 1階の根元線には緑が無い方がいいが、 そこから上はどうでも良いんじゃないの(都市の抱える問題、 生態システムに応える形にしても良いじゃないか)。

 ○面と向かって反対する理由は無いですな。

 ●都市活動をするグランドレベルは都市に開放すべきで、 緑で閉じることには僕も反対だ。

 緑そのものは新陳代謝するが、 その空間秩序が担保されることで、 社会的なインフラとなる、 1階はにぎやかで良いじゃないか、 だけどそこから上は別の論理が働く。

 ○道路の空間はどうあってほしいかと言う議論はやらなくては・・・・。 緑が出てきてはまずいんだよと言う議論があるかもしれない。

 

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丸太町通 熊野神社道西入 明治44年9月 出典 写真で見る京都今昔、新潮社
 
 ●(丸太町通の昔- 明治44年 -の写真を見て)京都は、 市内の要所要所に、 あっと言う様な緑の塊に出っくわす町だったんだろう。

 ひとつの街区に一つや二つの緑の塊が町に露出していたんだろう。

 そのような町に露出する緑を、 これから誰がどのように、 どのような形で担って行くのかと言う議論になってゆく。


ファサードの姿をめぐって

 ○緑のデザインであると同時に建築のデザインになってくる。 どういうファサードの連続を作ってゆくのか。

 ●ファサードの話だけではなく表家造りが持っていた多孔質な、 中庭からの対流があるような空間の良さをこれからの建築にどう取り入れてゆくのかが一方であって、 別にファサードの問題は文化的な問題として出てくる。

 「町家型集合住宅」でちょっと気に入らないのは、 伝統的なエレメントに頼りすぎている、 水戸黄門の印籠のように、 瓦屋根と庇と、 格子を付ければファサードができちゃう、 と言うことではないんじゃないか。

 ◆(今までの議論を振り返って)緑のあるファサードの連続の姿が、 まだ見えてこない。

 ●それも含めて京都のこれからの形が見えてこない。 新しい建築のスタイルはまだ見えてこないが、 それはこれから創り上げてゆく、 あせってはいけない。

 

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旅館「柊家」のムベ
 
 ○(柊家の板塀の上に絡まるムベの写真を見ながら)緑は、 緑じゃない(壁面の)部分があるからいいので、 ファサードが全部緑じゃちっともよくない。

 この対比があるからいいので、 対比をどう作ってゆくのかが大事なデザイン。

 ●今、 圧倒的に(ビルの無機質な壁面が)肥大しているから、 今までのプロポーションで議論するのは難しくなっている。

 このような(柊家のような)プロポーションを、 こうゆう相手(近代的なビル)に対してどう造ってゆくのかが、 これからの課題になってくる。

 そのとき従来型のやり方ではおっつかないんじゃないか、 こっち側(近代的ビル)が建築エレメントとして緑を取り入れることを考えないと難しいんじゃないか。

 ○多孔質という言葉を使っていたが、 (のっぺらぼうな)マンションの妻壁は立ちはだかってくる。 そこが多孔質であれば何か可能性があるんじゃないかと言うのは良く分かる。

 ●そこで壁じゃないという風に考えて「じゃあどうなんの」ということも考えなくては。

 

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姉小路通りモンタージュ
 
 (姉小路の合成写真を見ながら)町家を積み重ねて行くと言うコンセプトは、 具体的にどういった表層を持った建物になるのかといった時に、 壁じゃなくて「かご」を積み重ねたみたいな物になるんじゃないか そのような風なものとして考えて行けないのか。

 ○(姉小路の伝統的な町家のファサードの合成写真を見ながら)京都の町家のファサードは完成された姿だ。 そこに敢えて緑を入れているのは、 どういう考えなのか。 とても賛成できない。

 ●ご指摘の通りだ、 一つには、 敢えて議論をする為に入れてみた。

 もう一つは、 今中国産の簾が安く入っているが、 簾は毎年取り替えなくてはならないので大変だと言う話を聞いた、 簾に変わるシステムが無いか考えて見たいという事もある。

 ○しかし、 これ(合成写真)には簾があるではないか。 簾が在ってこのファサードは完成している。

 ●だからこれはまだ考えの途中であって、 これが良いという事ではない。

 ○(写真の1階の鉢植えを指して)こうゆう緑は在ってもいい。 ご隠居さんが地面に趣味で鉢を並べたりするのは良い。 ファサードに馴染んでいる。 しかしこれ(簾の前に並べられた2階の緑)は違う。 ファサードを変えようとしているとしか思えない。

 問題は、 町家の場合、 軒庇までのファサードが完成されているでしょ、 それが残っている場合、 それを尊重すべきだと思う。 軒庇が連続している範囲では、 なんかの一つのテイストが連続しているべきだろう。

 ○(緑に対する建築家の拒否反応について)やっぱり建築は緑に負けるんですよ。 とにかく緑の存在感はは強いもん。 (建築家には)緑に対する完璧な劣等感がある。 だからファサードも緑とのバランスをどうとるのかが、 一番の課題。 それをすんなり「緑が大将」と言ってしまったんでは建築のでる幕が無い。 木立に囲まれた別荘地が一番いいと言うことじゃ都市は語れない。

 ◆逆に、 緑を半分ぐらい植えなさいという建築の与件だったら、 それはそれでデザインできるのでは。

 ○要するに出来上がったものに色塗られるのがいやだ(笑)。

 ●(今回は)基本的に既存のマンションに緑化するという提案ではない これからつくるものに対して、 である。


京都は近郊との結びつきが強く、 都市の個性の一つになっているのではないか。

 ●京都の風土性については、 田舎ではない都会なんだけれども、 東京や大阪とは違うよ、 という地域性みたいなものある。

 京都は大都市だけれど町のすぐ近くに山や農村がある、 そうした地理的な条件が、 周辺の地域とのつながりを強くし、 それが京都の個性の一つになっているといえないか。

 東京や大阪でこういうことを言っても迫力はないが、 京都というのは「材木なら北山」とか、 瓦でも壁土でも、 庭の材料でも「京都ブランド」は皆“地”の素性の知れた素材で、 あまり(市場経済化されない)商品化されない物とのかかわりが強いのではないか。

 まあ今のマンションなんかは別だろうけど、 今でもそうした物を通じての都市と農村の結びつきが残っているんじゃないか。

 ○そのときに植木鉢で作るような立体緑化は、 どのようなデザインになるのか、 どのように楽しむのか、 外からどのように見えるのか。

 僕だったら九州のカボスやキンカンを植えたいと思うだろう。 鉢植えで考えた場合、 土にも植木にもメンテナンスの仕方にも非常にフレキシビリティがある。 それと材料の産地に対するこだわりという話はつながってくるのだろうか。

 ●一つの手がかりとして「京都周辺の」というこだわりが(素材の)選択のベースとしてあるのではないか、 そもそも環境は場所性を抜きには考えられないものだから、 そういったベースの部分で環境を考えた方が良いんじゃないか。

 (素性のわからない)商品化されたものを市場で買ってくるということだけじゃなく、 人と人、 人と場所、 人と物の縁(えん)をきっかけとした空間の造り方もあるのではないか、 要するに環境はマーケットじゃ買えないものではないか。

 ◆好き嫌いで環境問題が何とかなるのなら良いけど………。

 

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御所南のマンションの緑化スタディ 夷川のマンションの緑化スタディ
 
 ○(合成写真を見て)これだけ緑が立体的に使われたとすると、 これは一つの大きなマーケットになる 京都の造園業者にとって無視できない存在になる。

 ●そのときに既成の流通システムじゃなくて、 産地直取引のような、 例えば白川女がお得意さんのところに京野菜を届けるような関係が作れるのではないか、 そういうことが東京や大阪よりも可能性があるんじゃないか。

 ◆京都も嵯峨野のあたりに植木屋が多く、 (植木の)畑もある、 そこでは、 山から取ってきた樹を育てることもあるだろう。

 ◆京都だからというよりも、 集合住宅で緑化をこれだけやった場合の維持管理とか、 近隣とのトラブルを解消するソフトの一つとして、 緑に愛着を持ってもらう仕掛けという面があるんじゃないか。

 ゼネコンに全てを任せるんじゃなくて、 わざわざ田舎まで行って樹を分けてもらうようじゃなければ、 愛着が湧かない。

 こだわりのありようであって、 環境上とか、 デザイン上の意味があるとは思えない。

 ◆マンション単位でやるのではなく、 緑を育てて供給するNPOのような組織も考えられる。

 ◆一人でも緑化できるような個別のパーツを開発する必要もある。

 ○パブリックな緑、 セミパブリックな緑、 プライベートな緑では、 緑の重さがぜんぜん違う。

 プライベートな緑が外から見えないならば「勝手にしてくださいよ」で済むが、 緑のインフラというように外から見えるようになると、 そうでは済まない。

 ◆プライベートな部分なら、 逆に日本は自由だ、 しかし、 共同住宅の場合共用部の緑になるから、 はるかに戸建住宅よりも難しい。

 壁面緑化でも壁は共用部分だから、 釘を打ち付けてツタを垂らすなんてことは難しい。

 そういうあたりで、 人々を巻き込めるような魅力をどれだけ持てるかどうか、 そういう仕掛けがしているマンションが、 売れるかどうか。

 その物語の一つとしての京都ブランドではないか。

 ◆本当の原動力はヒートアイランド現象や環境問題であって、 その後押しとして今までのような話が出てくるのでは。

 ◆ヒートアイランド云々で嫌がるものを強制する事はできないが、 一方でガーデニングブームのように、 意味はどうでも良くて「好きだから緑を植える」ということがはやる。

 ○緑を見るだけなら良いけれど、 自分のところに植えるのはイヤという人もいる。


緑と共生する都市文化は可能か

 ○ちょっと話がそれるけれど、 日本人は緑が好きではないという気がする。

 僕のマンションでも道沿いにユリノキを植えていたけど、 育つのが速くて十何年で4階建ての高さになってすごく良かった。 けど、 根元からすぱっと切ってしまった。 近くのマンションの見事なケヤキも道路に枝が張って、 一杯クレームが来て、 ずたずたに切った。

 僕の街に来れば、 日本人がどれだけ緑を嫌っているかがよく分かる。  
 ●もうちょっと考えて見れば、 つい百年位前まで我々の先祖は有機的な環境の中で緑と共に生活を送ってきたわけで、 僕らはそうした環境に触れる機会が無くなって、 それが分からなくなって来ている。

 今我々はものすごくバランスを失ってしまっているから、 緑を受け入れることもなかなか難しいといえる、 日本人はその面でも”劣化”しつつある。

 ○自然や緑を愛する日本人と言うことではもう期待を持てないんじゃないかと思う。

 案外それが人間の自然な感情なのかもしれないと思ったりする。 ドイツや東欧には町なかに緑があるけど地中海の方に行くに従って街の中から緑がなくなってゆく。 その代わり裏の方に空き地があって緑がある。 町なかの表側に緑を持ち込まないのは都市における生活の知恵であるのかもしれない。 一概に言えないけれど、 京都の町なんかを歩いていると緑が無いのが、 ひょっとしてこれも生活の知恵なんじゃないかと思う。

 ●それは結果でしょ、 アテネなんてアクロポリスがあった時代、 周りは森だった、 軍艦作るために周りの森を切った。

 ○そうだけど問題は都市の中の在りようの話。

 ●「都市」の中と周りの田園なり「非都市」はワンセットで存在していたのであり、 その一方だけを切り離して取り上げて、 緑のあるなしを言うのは意味が無い。

 ○できるだけ都市をコンパクトに作るのが、 彼ら(ヨーロッパの都市と田園)のクオリティを守ることでもある。

 ●町をできるだけコンパクトにするという考え方はあると思う。

 ◆コンパクトにすると町と町の間はどうなるのか。

 ●そこは「間質」となって、 田園等の非都市的な土地利用になる。

 ○僕が言いたいのは、 密集して人が住む所に、 緑がたくさん入ってくることを人間は許容できるのか。

 ●それは文化の問題だと思う 。

 ○僕が育った田舎では、 隣の落ち葉が入ってこようと、 そんなもの当たり前、 気にする人はいない。

 ●僕が住んでいる住宅街でも、 道に落ち葉が積もっても良いという人もいるが、 一方で火のついたタバコを捨ててゆく奴がいるから火事になる危険があるという、 別の要素もある、 僕としては、 それが文化の問題だと思っているんですよ。

 ○自分ちの落ち葉が何枚か落ちているだけで、 周りの人に迷惑をかけていると言う人がいる。

 ●そういう人は増えてゆくんだと思いますよ、 土が汚いとか触れないとか、 落ち葉が気持ち悪いとか・・・。

 だけどその状態が仕方ないと言っていると、 この種(人類)は危ない、 僕ら旧人類としては、 警鐘を鳴らして、 どうすれば良いのかと言う処方箋を出しておく。

 緑が有る所と無い所があれば、 落ち葉の処理などの問題が出てくるが、 全部緑になればお互い様で問題が無くなる。

 ○きっちり緑を管理する役目の者がいないと今の世の中では成り立たないだろう。

 ただし、 管理する体制がオープンでなければならない。 やりたいという人がどんどん参加出来なければならない、 ということかな・
 ●最初から緑を作っておくのは難しいのではないか。 最初から作っておくのは場所で、 ルールとして緑以外のものを置いてはダメにして、 そういうところからスタートして、 緑を育ててゆく。 後は東京都がやっているみたいに公的な制度として屋上緑化を進めてゆく。

 そういう議論を進めていったときに、 今の街じゃない姿の可能性を皆で考えるチャンスを作ってみたい。

 冷静に考えたら出来るか出来ないか分かんない、 だけど、 こういうビジョンを考えてみようよ、 ということはやってみたい。

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