緑としての建築
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批判に応える1

緑に浮かぶ都市・緑に沈む都市

ウエノデザイン 上野 泰

 

 

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写真1 「祇園新橋」2001
 
 井口氏よりお寄せいただいた下記の2つの質問への答えは、 yes であり no である。

     
    Q1. 丸太町通りの昔の写真を、 京都(それも姉小路界隈の)これか
      らつくるべき
      街並みの一つの到達点と考えるんですか?
    Q2. 軒から下、 つまり町家のファサードを連続させることに賛成で
      すか
      (必ずしも格子が、 簾がとは言いません。 スケールと趣の連続で
      す)?
      連続させると昔丸太町にはなりません
 
 私のこの問題に対する基本的スタンスは、 現代の(さらにこれからの)京都を含む日本の都市のあり方として、 どのような姿が良いのかを探ることにある。 歴史的な都市といえども、 そこに住む人にとって住み難いものであれば何もならない。

 歴史あるいは伝統の名の下に、 過去の「型」を押し付けても、 それが担い手の支持を得て、 喜びと誇りにつながらなくては、 持続することはあり得ない。 その意味で、 京都といえども変容を免れ得ない事は言うまでもない。

 歴史的空間秩序を語るとき、 それが今どのような意味(あるいは価値)を持つのかを検証しなければならない。 京都という都市も長い歴史の中で、 様々な姿をとってきたはずである。 現在の京都の市街地の姿が、 バランスのとれたものとはとても言いがたい。 望ましいバランスを取り戻すため、 歴史を参照することは、 それなりに意味のあることである。 しかしその場合、 重要なのは、 それが何時の時代なのか、 なぜその時代なのか、 さらにそれが今の、 またこれからの人々にとって意味があり、 受け入れられるものなのか、 ということであろう。 その意味で、 我々(私?)にとって、 一番の刺激を与えてくれるのが、 江戸後期の京都の姿なのである(半分は私の思い入れかもしれないが)

 安永9年(1780)に竹原春潮斎の筆により刊行された「都名所図会」には、 現代の京都から想像できる姿よりも、 はるかに緑の多い、 ソフトな町並みが描かれている。 「都名所図会」が刊行された1780年は、 宝永大火(1708)よりほぼ70年経っており、 その8年後の天明8年(1788)には再びの大火で、 市中の5分の4が焼失している。 したがって、 「名所図会」に描かれた姿は、 江戸後期の京都のピークの姿を表していると見る事も出来るだろう。 幕末の大火(蛤御門の変)を免れた、 「丸太町通熊野神社道西入」の明治44年の写真は、 確かに中心市街地そのものの姿ではないものの、 そのようなソフトな町並みの面影を残す貴重な写真と思われる。 もし歴史の名において、 町の空間の「型」を語るならば、 かっての丸太町の姿が、 最も環境のバランスが取れた京都の町の姿のイメージとして、 我々に多くの示唆を与えてくれるものと思っている。

 京都の町並みが、 いわゆる「表家造り」の町家だけで構成されていたわけではない。 すなわち、 町中にモザイク状に点在していた社寺、 公武の屋敷などの緑や、 仕舞屋の緑が結構表に現れていて、 バランスの良い、 いかにもアジアらしい、 ソフトでウエットな「やさしい」町並みを作っていたものと推測される。 そしてそのような姿こそ、 我々が目指すべきこれからのヒューマンな都市のあり方ではないか。

 一般論として言うならば、 無論過去の型が、 そのままこれからの土地利用も、 都市構造も、 建築形態も人々の生活スタイルも、 まったく異なる町のあり方の全てを規定する事はありえない。 歴史を参照するのは、 我々が選んだ未来が、 過去からの連続性という「正当性」を獲得するためであり、 未来を選ぶのは過去ではない。 そしてしばしばこの「正当性」は、 歴史の中からその時々の、 最も都合の良いものを、 恣意的に選び出してきた、 ということも事実である。 京都の町並みのこれからを考える時、 町の表から緑を排除すると言う考え方は、 どう考えても現実的ではなく、 またそれを歴史的空間秩序の名において語ることも、 説得性に欠けるものと言わざるをえない。

 

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写真2 祇園 1985
 
 歴史的空間秩序と言えども、 現にそこで生活する生身の人間にとって快適な空間でなければならない事は言うまでもない。 人々の日常生活の場である道空間が、 潤いのないコンクリート砂漠でなければならない合理的な理由は見出し難い。 話は少しずれるが、 この夏何度か京都を訪れる機会があった。 今年の夏が記録的暑さであった事は確かではあるが、 東洞院通の京都中京青年の家の前の短い並木の木陰に駆け込む人々を見て、 「都市デザイン」は伝統、 歴史の名において、 この人たちから緑陰を奪うことは出来ない筈だという思いを強くした。 だからと言って、 京都の道全てに並木を植えるべきだと言っているわけではない。 京都の空間秩序を生かしながら、 道空間を快適にする何らかの方策が求められることは確かであろう。 その答えが、 例えば四条通のアーケードであったとしたら、 ちょっと寂しい。 とはいえ、 一口に京都の道空間と言っても、 烏丸通や御池通のような道もあれば、 四条通や河原町通のような道もある、 また新京極や錦小路のような道もある。 一つの道、 一つのお町内の中にも「特異点」があるだろう。 決して一つの型で考えることは出来ない筈である。 このことが直ちに「緑としての建築」と言う考え方に結びつく訳ではないが、 多様な道空間を快適にする手立ての一つとしても、 あって良いのではないかと思っている。 例えば、 屋上などから道に張り出した樹木によって、 道路レベルを開放しながら、 道に影を落とすことも可能だろう。

 井口氏の言う「奥」の緑を決して否定するものではないが、 「表」の道も生活空間である以上、 快適さはどうでも良い、 というわけには行かない筈である。 奥=路地あるいは中庭のネットワークが整備されると言う、 都市構造の再編が行われれば、 それは一つの解決法であろうとは思う。 そのための実践的手段は「地区計画」と言うことになるのだろうが、 まとまらなかったら、 ゼロで良いのだろうか。 京都の緑についての「歴史的空間秩序」を尊重するとして(そしてそれが、 これからの京都の街を考える上で欠かせない事として)、 京都の緑は歴史的にも、 そして今も「奥」だけではない、 その事が「人が暮らす町」の姿として、 バランスがとれたものである、 というのが私の主張である。

 「ファサードの連続性」と言う問題については、 基本的には賛成である。 隣の建物と如何に違ったものとするか、 ということのみが目的となっているかの如き、 現在のわが国の都市の町並みの「百鬼夜行的」状況が、 我々に少しの快適さをも提供出来なかった、 という反省に立つからである。 個々の建物なり敷地は、 社会基盤なり都市基盤があってはじめて価値を生ずる。 その意味で、 個々の建物なり敷地は都市のポテンシャルを維持する、 共同の責務を担っているはずである。 人に快適さを与える景観もまた重要な町のポテンシャルである。 とはいえ、 四条通のアーケードの様に、 一つのエレメントが延々と続くことが、 その回答とは考えられない。 その意味で井口氏が言う「スケールと趣きの連続性」という考え方には賛成ではあるが、 その事が、 道空間から緑を排斥することにはつながらないと考える。 むしろ空間デザイン的には、 延々と統一された「スケール」なり「趣き」が続くよりも、 随所で「心地よい中断」があった方が、 よりその連続性が強調されると言う事を、 丸太町の写真は実証しているのではないだろうか。 今日の京都の市街地の中で最もバランスが良いと思われるのは、 元吉町から新橋、 巽橋界隈である。 お茶屋の家並みは、 数ヶ所の「特殊解」の緑で分節され、 街区は辰巳大明神や橋界隈の緑で分節される。

 そして通りの正面には東山の緑が見えている。 無論このプロポーションも、 建物が2階までという条件つきではあるが。

 それならば、 一般論としてどのくらいの比率でその「心地よい中断」があるべきか、 という問いについては、 大変に難しく答えられない。 道とか、 建物のスケールや性格によって様々になるだろう。 道に面するファサードの「面」に対して、 緑が占める比率はどの位が望ましいのか、 という問いにも答えられないが、 「原理的」に言うならば、 1、 2階を除く「全面」と答えておきたい。 このことは次に触れる建物のスケールと言う問題に深く関わる。

 京都の街並みの深刻な問題はそのファサードに加えて、 シルエットにある」「つくるものが大きなヴォリュームの建築物だけでいいのか」と言う問い掛けには、 まったく異論はない。 もし大きなヴォリュームの建築物を造らなければならないとしたら、 町のスケールに合わせて分節化する等のデザイン上の配慮が求められることは当然である。 しかし問題は、 それ以前の高すぎる容積率や、 開発ニーズのシェアリングの必要性と言ったことにあるだろう。 (とはいえ、 今ある高層マンションを、 向こう十数年かの内に取り壊すとか、 頭を切り取るとかと言った事は現実的ではない。 しかし、 いずれにせよ都市環境再生のためには、 もっと隙間の多い「ラジエーター状の建築とする為に、 容積率のダウンは避けられないのではないか)大きすぎる壁を緑で覆えば問題が解決するとは考えていないが、 「アデランス」デザインの「抹茶羊羹」もまったく否定するものではない。 狭い空間の中での、 建物の蓄熱面の遮蔽と言う目的のためには、 大変有効な手段であると考えるからである。 少なくとも頭上に聳える「蓄熱装置」を遮蔽する働きは、 ある程度期待できるはずである。 建築物を蔓性の植物で覆うと言う技術は、 人間が各地で古くから行ってきたものである。 それを、 今排斥しなければならないという、 合理的な理由はまったく見当たらない。 手段は多様であった方が良い。 ただし、 「緑としての建築」イコール「抹茶羊羹」と考えているのではないことは、 これまでの議論でご理解いただけたものと思う。

 「緑としての建築」は都市環境の再生を「部分」のあり方から実現しようと言う考えであり、 緑を都市に取り込むことを「目的」の一つとする建築のあり方である。 個々の建築が都市に緑を取り戻すことに責任を持とう、 という提案である。 したがって、 その具体的姿は多様である筈である。 そしてそれを選ぶのは言うまでもなく京都の人たちである。

 これまで井口氏との議論の中で、 多くの一致点を見出しながら、 何時しか平行線を辿るのは、 氏が「緑に浮かぶ」都市像を抱いているのに対し、 私は「緑に沈む」都市像を想い描いていると言う、 それぞれが京都に投影しようとしている、 空間原型の相違によるものだと思い当たった。

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