大阪における集合住宅形成史
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3 大阪の市営住宅

 

関一と片岡安がつくった近代的アパート

 集合住宅の流れを追う場合、 はずせないものに大阪の市営住宅があります。 近年、 立ち退きで話題になったのですが、 大阪市にはRCで出来た改良住宅がありました。 今度は、 そのRC市営住宅について話したいと思います。

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図09a RC市営住宅位置図
 図09aで示した「北日東住宅」「下寺住宅」「南日東住宅」については、 ご存知の方も多いと思います。

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図09b 今宮住宅(出典:「建築と社会」第12輯第8号)
 実はこの3住宅が建てられる前に「今宮住宅」が建設されています。 今宮住宅は、 このあたりの住宅事業を進めるため一種の「転がし事業」のタネとして建てられたものです。 中庭を配した設計で、 屋根には瓦をのせてちょっとおしゃれな感じになっています。 敷地に入る入口はとても狭いのですが、 中には中庭があり開放的な感じです。 道路に面している部分は店舗になっていました。 この今宮住宅は天下茶屋の入船町にあったそうですが、 戦後復興の土地区画整理事業のため潰されてしまいました。

 これらのRC市営住宅は、 東京の同潤会の建物と並ぶ改良住宅だと評されることが多いのですが、 同潤会の動きとは関係なく関一と片岡安の二人の都市計画家がたくらんだものではないかと、 私は見ています。

 というのも、 同潤会アパートメントは関東大震災の復興事業として建てられたものなのですが、 大阪の市営住宅は震災のずっと前から内務省の方に建築申請がされていたという経緯があるからです。 ただ関市長は、 最初は住宅事業には乗り気ではなかった節があり、 片岡がかなり熱心に「大阪に近代的アパートメントを建てたい」と説得したようです。

 問題は、 建てたくても資金がない。 そこで、 立派な集合住宅を建てるための動機として「不良住宅地区の改良」という言葉が持ち出されてきたようです。

 つまり、 事業としては本末転倒だったため、 後世にはこの事業の評価を下げることになってしまったのですが、 建設資金を捻出するためにはどうしても大義名分が必要だったのです。 ともあれ、 立派な動機が出来たため、 関市長も同意して、 このような改良住宅が次々と建てられるようになりました。

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図10a RC市営住宅の今(北日東住宅)
 RC市営住宅は現在は住む人がいなくなっていて、 何とも言えない状況になっています。

 北日東住宅は丸窓が付けられるなど、 おしゃれなものだったのですが、 その後居住者による自前デコレーションがされています。 原型は花台が付いていた窓で、 道路に面する場所には店舗が並んでいました。

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図10b RC市営住宅の今(南日東住宅)
 南日東住宅に見える汚い小屋の群も実は計画的に建てられたものです。 改良住宅に住む人たちは、 元からその場所に住んでいた人たちで、 屑拾いを職としていたので、 荷車を収めたり集めてきた屑を置いておく場所が必要だということから、 このような小屋が建てられたのです。

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図11 RC市営住宅の内部
 改良住宅自身は当時の最新の設備を取り入れていて、 電気もガスも水道も通じていました。 当時の大阪市は、 上下水道をとても早くから整備していたのです。

 このRC市営住宅の内部で珍しい写真を撮ることが出来ました。 南日東住宅が2001年5月に取り壊されるとき、 居住者が退去した後で頼み込んで中に入って撮った写真です。

 写真に見える台所が、 設立当時(1922年(昭和7))の原型をとどめている台所で、 土間になっていました。 ガスが来ていたはずなのに煉瓦で作った釜があります。

 また、 外に出てみると、 共用通路に面している窓は、 長屋を思わせる細かい作りの木の格子が付けられていました。


改良事業計画

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図12 改良事業計画(出典:「建築と社会」第16輯第8号)
 この頃の市営住宅は今の目で見るとなかなか面白い要素があちこちにあるのですが、 建物以上に面白いと思ったのがこの改良事業計画です。

 図12は、 1933年に作られた「不良住宅地区改良事業計画」です。 大きく南北に通っているのが堺筋で、 でんでんタウンです。 大阪では大きい道路に面しているところはちゃんとした店や家が並んでいるのですが、 大通りに面していない中が「裏」と呼ばれるドヤ街になっていて、 こういう場所が不良住宅地区でした。

 改良の方法としては、 不良住宅地区の中に新しい道を1本通し、 真ん中の汚いところばかりを集めて集合住宅にしていくものでした。 当時としては壮大な計画です。 道を1本通し、 真ん中だけをくり抜いていくやり方を、 私は「串団子型開発」と呼んでいます。

 東京や神戸の不良住宅地区の改良事業は地区全体を取り払って綺麗に整備していくのが通常だったのですが、 大阪の場合は道路に面しているところは手を付けないで街区の真ん中だけを整備するやり方だったのです。

 ところで、 この事業を計画した片岡安は「このRC住宅が大阪の街中に広がって欲しい」との希望を持っていたそうです。 とりあえずは典型的な住宅を建てようということで、 この計画案が出されました。 ところが実際にはRC住宅を3地区建てたところで日本は戦争に突入してしまい、 続けることができませんでした。 コンクリートも鉄筋も足りなくなって、 改良住宅はRCではなく木造に変更されて建つことになりました。 長屋建ての木造住宅がつい数年前まで日本橋の裏側に残っていたことを記憶されている方もいらっしゃっるのではないでしょうか。 今も木造の市営住宅は2、 3軒残っています。

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図13a イタリア・ミラノ市住宅組合「ビクトリア集合住宅」外観(出典:「大大阪第6巻第1号」)
 片岡が夢見た改良住宅は、 そもそも何を元に発想されたのだろうと調べてみたら、 戦前の大阪市が発行していた『大大阪』に図aのような写真が掲載されているのを見つけました。

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図13b イタリア・ミラノ市住宅組合「ビクトリア集合住宅」プラン(出典:「大大阪第6巻第1号」)
 何の注釈もなく載っていただけなのですが、 ここのプラン(図b)を見ると、 今お見せした改良事業計画のプランにとてもよく似ているのです。 街路を囲むような形で建物が建っていて、 内部には、 また別の棟が並ぶという集合住宅団地です。

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図14 アパート風景(下寺町住宅、 出典:北尾鐐之助「近代大阪」−プラタナスの街路樹)
 図14を見ると、 花台や店舗の作り方がビクトリア集合住宅とそっくりで、 戦前の大阪市の人たちはこういうものを夢見てRCの集合住宅を作ったんだと思います。

 RC市営住宅には、 1階に店舗、 上階には単身者用アパートも組み込まれた様々な住宅様式が入っていたこともその特徴です。

 写真で見るときれいなのですが、 残念なことに社会福祉事業としては全く機能しなかったとさんざんな評価になりました。

 ここに住んでいる人たちは、 こうした新しい設備集合住宅に全く慣れておらず、 水道やガスの使い方が分からない。 ダストシュートも付いていたのにすぐに詰まってしまう。 最新の集合住宅はあっという間にボロ屋になったと記述されています。 家賃もかなり高かったせいか、 住人達は1年も経たないうちにもっと南の釜ヶ崎や天下茶屋に引っ越していきました。 今あのあたりがゴチャゴチャした町になっているのは、 そもそもこの集合住宅が失敗したからだとよく言われています。

 ただ、 私はこの集合住宅はとても興味深いと思います。

 さて、 戦災によって大阪の住宅は大半が焼失してしまいました。 改良事業計画の目標が「大阪を一晩で燃えるような町にはしない。 国際都市にふさわしい不燃都市を作ろう」ということだったのですが、 間に合わなかったのです。 ただし、 RCの住宅だけはちゃんと残って、 戦争後もみなさんが住み続けています。

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