大阪における集合住宅形成史
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4 戦後の大阪における併存住宅

 

戦後の大阪の都市・住宅政策

 戦争が終わると、 戦後復興の大きな柱として再び大阪市の住宅事業が始まりました。

 大阪市では戦後に三つの大きな課題がありました。

 まずひとつは、 言うまでもなく深刻な住宅不足です。 住宅建設を促進するため、 住宅金融公庫法が出来、 大阪市や大阪府に住宅協会が作られ、 公団法が公布されて日本住宅公団が出来、 大阪にはその関西支社が置かれました。

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図15 耐火建築帯(出典「建築と社会」第33輯第12号、 1952年)
 二つ目の課題は、 都市の不燃化を促進することです。 1952年に「耐火建築促進法」が制定されました。 これは、 都市の中心部に地上3階以上、 高さ11m以上の耐火建築物が帯状に建設された防火建築帯を作ろうという目的で制定されました。 図15が、 大阪市が計画した「耐火建築帯」です。

 この耐火建築帯は、 築港部分を除いて大部分が環状線の内側に計画されました。 よく見ると、 ほとんどが戦前にあった市電道路沿いに計画されているのが分かります。 市電道路は大阪の街に市電を通すために拡幅された道路なのですが、 大阪の道路体系の一種のヒエラルキーを作っていた道路で、 ここに耐火建築(高さ11m、 奥行き11m)あるいは準耐火型の建築を建てれば融資をしようという制度もできました。 この時はその基準に沿った奥行き11mの店舗付き併用住宅のコンペが盛んに行われていました。

 三つ目の課題には、 都市空間の有効利用です。 都市空間の有効利用とは、 都市に平屋や2階などの低層の建物が密集してしまうとその上空がもったいないじゃないかという発想で、 建物の高層化を図るようになりました。 そのために出来た制度が1957年に作られた「中高層建築物融資」という制度です。

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図16a 中高層建築物融資(黒田商店)
 「黒田商店」は店舗の上部に住宅を持ってきた耐火型のビルで、 このような建物に適用されました。

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図16b 中高層建築物融資(立葉共同建て替え住宅)
 写真の立葉共同建て替え住宅は、 長屋建ての集合住宅を区画整理事業に合わせて建て替えた例で、 このような事業にも適用されています。 なお、 中高層建築物融資制度は床面積の50%が住宅でないといけないと決められていました。


併存住宅について

 このようにいろんな制度を利用しながら戦後の大阪では耐火構造の住宅のはいった建築物が次々と誕生していったのですが、 大阪にはこの「中高層建築物融資」制度が出来るのを見込んで建てた建物があります。 それが、 大阪府や大阪市の住宅協会が建てた「併存住宅」です。

 「併存住宅」という言葉を初めて聞く方も多いでしょうが、 当時は日本住宅協会が発行していた『住宅』という雑誌や大阪の住宅復興促進協議会が発行していた『住宅復興』の中で「併存住宅特集」が組まれており、 けっこう知られた言葉だったようです。 ですから、 融資制度が出来る前から、 店舗を組み込んだ併存住宅は建てられていたのです。

 併存住宅は、 建設省住宅局の人が定義したものでは「店舗等の上部に住宅をのせた中層または高層の建物」となっています。

 また、 同時に併存住宅を建てる三つの意義も述べており、 (1)住宅用地難の解決(郊外で土地を求めるのは造成に金がかかる、 都心で更地を求めると高くつく、 併存住宅に住むことでこれが解決できる)、 (2)都市計画上の意義(市街地をコンパクトに作ることで、 交通網の延長や都市施設を新たに作る必要がなくなり、 合理的な都市開発ができる)、 (3)市街地の不燃化、 この三つの意義を述べています。 この三つの考え方をうまくまとめたのが併存住宅だということで、 戦後の都市では盛んに提案されました。

 この併存住宅は大阪だけではなく、 全国の都市で展開され、 東京、 横浜、 京都でも建設されました。

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図17 併存住宅・谷町ビル
 大阪府住宅協会が設立と同時に建てたのがこの谷町ビルです。 建設は1956年です。 今もちゃんと残っています。

 建てられた当初は、 2、 3階に大阪府住宅協会の事務所が入り、 1階は倉庫や事務所として分譲されていました。 土地は大阪府住宅協会の所有です。 4階以上が「長期分譲住宅」という聞き慣れないタイプの住宅になっています。 これは今で言う定借マンションのような住宅だったようです。 住宅の所有関係については、 民法による区分所有で裏付けられていたのですが、 前例のないことだったので、 雑誌を読んでいても当時は誰もうまく説明できなかったようです。

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図18 「併存住宅」年表
 市協会、 府協会、 公団、 大阪市が作り上げた併存住宅の事例数と「併存住宅」に関わる施策を年表にしてみました。 市協会は後に市住宅供給公社、 府協会は府住宅供給公社になります。 大阪市は数は少ないのですが、 市の土地に市協会や府協会が建設をするという形で関わることが多かったようです。

 年表を見ると、 府協会は1963年に建設を止めています。 なぜ止めたのかの最も簡単な回答は「千里ニュータウンが開発されることになって担当者がみんなそっちへ回され、 併存住宅を手がける人がいなくなったから」ということになります。 結局、 市協会と公団だけがその後も併存住宅を作り続けました。

 上部階に作られた住宅の性格は様々で、 大阪市の建物は市営住宅、 公団の建物は賃貸住宅、 府協会の建物は長期分譲住宅、 市協会の建物は賃貸と分譲が混じっていましたが後に分譲ばかりになりました。 1970年までに、 全部で74棟の併存住宅が建てられました。

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図19 「併存住宅」の分布
 西区と中央区に特にたくさん建てられています。 西区は区画整理がされた場所で、 そこには府協会の併存住宅が多数建てられています。 中央区は、 防火建築帯の後を継ぐように出来た「防災建築街区造成事業」の名目で併存住宅がたくさん建てられています。 浪速区で多いのは「改良住宅」です。 カウントするにあたっては、 病院や保育所などの社会福祉事業と一緒に建設されたものは省き、 店舗と一緒に建設された住宅のみを入れました。

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図20 上六〜下寺町防災建築街区
 上六〜下寺町防災建築街区の様子です。 建設中の写真なので、 街の表情は一変していますが、 当時はこの界隈に五つの併存住宅が建てられました。 道路の拡幅事業と同時に行われました。

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図21 八幡屋住宅
 併存住宅の中でも特徴的な建物を見ていただきたいと思います。 この八幡屋住宅は中央大通りに沿って建っています。 プランは先ほど説明しましたRC市営住宅に近いものがあるように思えます。 特徴的なのは、 地下と1階がメゾネット、 2階が独立した住宅、 3階と4階がメゾネットになっている複雑な造りです。 1階は店舗だったのですが、 今は大半が店を閉めていました。

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図22 関目第二住宅
 これは、 コンペのありました古市団地の2ブロック北にありました。 公団団地の道沿いに建つ併存住宅です。 今は取り壊されて公団の新しい建物になっています。 1、 2階が店舗付き住宅で、 その上部に専用住宅が横向けの形で建っていました。

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図23 瓦屋町住宅
 瓦屋町住宅は市街地に建つタイプです。 外からは分からないのですが、 中に入ると4階に中庭があります。 3階までが事務所で、 その上部がロの字型の住宅になっています。

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図24 岡崎第二住宅
 これも同じような造りで、 街区に沿って建物がぐるりと建っており、 4階までが事務所、 5階に写真の中庭(街路の裏側)があり、 その上部が住宅になっています。 事務所部分は以前は銀行が入っていました。


併存住宅のタイプ分け

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図25 併存住宅のタイプ分け
 いろんな併存住宅があるのですが、 分類してみると四つのタイプに分けることができました。

 タイプAは建築線の後退がなく意匠も1種類で出来ているもの。 タイプBは建築線の後退はないが、 真ん中の施設部分だけ色を変えるというように意匠を2種類持つもの。 タイプCは建物の意匠は1種類ですが、 1、 2階の店舗部分のみ張り出して、 住宅部分は後退させたもの。 タイプDは建物の台の部分を施設にして、 その上に住宅団地をポンポンポンと並べたもの。 この4タイプです。

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図26a タイプA
 建築線の後退がなく意匠も1種類というタイプAの典型的なもので、 西区にある「江戸堀住宅」です。 微妙に幅が広いところまでが事務所になっていて、 その上からが住宅でした。 共用廊下が物干場として使えるような変わったプランになっています。 ただし今は、 住宅部分も事務所として貸し出されています。

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図26b タイプA
 図26bの建物は、 私が一番気に入っている円形の建物で、 「桜川住宅」です。 中はガラス張りの通路のある集合住宅です。

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図27 タイプB
 建築線の後退はないが、 真ん中の施設部分だけ色を変えるというというように意匠を2種類持つタイプが町中で一番良く目にするタイプBです。 この「天保山第一住宅」のように施設部分と住宅部分をくっきり色分けしているのが特徴です。 住宅が雛壇の上に載ったような形です。

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図28 タイプC
 建物の意匠は1種類ですが、 1、 2階の店舗部分のみ張り出して、 住宅部分は後退させたタイプCです。

 これは「北八幡屋住宅」です。 1階の店舗部分は街区に沿った形で建てられているのですが、 住宅部分は後ろに引っ込んだ形で建っているのが特徴です。 この時期、 タイプCの住宅だけがバルコニーを持っていて、 他のタイプには付けられていませんでした。

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図29 タイプD
 建物の台の部分を店舗にして、 その上に住宅団地をポンポンポンと並べたタイプDは、 大体が広い土地に建てられています。 このタイプでも施設部分は道路沿いに沿って建てられ、 住宅部分は後退する形をとっています。

 この調査をしているとき、 かつての設計者に「高さはどうやって決めたのですか」と聞くと、 「容積率制限がなくて高さ制限しかなかったから、 予算で決まった」という返事で、 お金があれば高く建てられたという話です。


併存住宅のファサード

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図30a (a)併存住宅のファサード
 aは公団が建てた「上福島住宅」です。 今でも店舗部分はBMWの販売会社が持っている建物ですが、 上部の住宅部分はもう誰も住んでおらず、 まるで看板建築のような建物になっています。

 バルコニーらしくせず、 できるだけ壁面に見せたいという設計者の思いがにじみ出たような建物です。 そういう建物が大阪には多いのです。

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図30c (c)併存住宅のファサード
 cは横浜の馬車道にある併存住宅です。 横浜は大阪と違ってバルコニーを外に出した建物が大半です。 なぜこんな違いがあるのかを調べてみると、 ある資料に神奈川県の供給公社の方が「住宅なのだから洗濯物が表に出ても構わないじゃないか。 洗濯物で満艦飾になっている光景が私は好きだ」と書いているのを見つけました。 この辺の感覚の違いがファサードの違いになって現れているようです。

 大阪の場合、 特に大阪府住宅協会の方は、 「洗濯物が見えないように設計するように」と指導していたようです。 というのも、 下階の事業主の方を大事にしていたからです。 事業のイメージが壊れないような建物を上に載せるために、 洗濯物が見えないようこんなファサードになったという経緯があります。

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図31 花園住宅
 洗濯物問題を解決する素晴らしい例が、 九条にあるこの花園住宅です。 下が共栄市場になっています。

 この建物は吹き抜けがあって、 洗濯物はそこに沿って干すやり方をしています。 建物の内側に洗濯物干場がある建物です。

 写真に見える1階と2階の間のすき間について担当者に尋ねたところ、 「下が市場で上が住宅なんだから、 すき間を開けないと変だ」という返事でした。 市場部分は当時としては珍しいキャンチレバーを使って、 とても長いスパンをとばしているとおっしゃっていました。 この時期は構造的にもいろんな試みがされていたようです。


併存住宅の評価

 以上、 戦後の大阪における併存住宅を見てきました。 併存住宅の大きな特徴をあげると、 まず建物の足元部分は街路に沿ってきっちり建てられていることが挙げられます。 そして4分の1ぐらいの建物には地下室が付いており、 地下空間まで有効に使って建てられています。 また、 上六〜下寺町防災建築街区のように併存住宅が連なることで、 街区全体を不燃地区にしようとする試みも見られました。

 また、 大規模な建物の多くは、 中庭をつくっています。

 こうした併存住宅が今ではなぜ建てられなくなったかについて、 建築学会の論文を調べてみると、 次のような指摘がされていることが分かりました。

 いわく「併存住宅を建ててしまうと、 まわりの木造の低層住宅の居住性はどうなるのか」「ロの字型の建物だと、 南面しない住宅が出来てしまう。 公団や住宅協会が建てる住宅が、 日照の悪い低質なものでよいのか」「通勤に便利であれば居住性は無視して良いのか」など、 痛烈な批判が学会の論文で展開されていました。

 公団内部でも「店舗事業者という私的な事業者にお金を提供してはいけないのではないか」という意見が出ていたようです。 土地の持ち主が事業者だった場合、 建物は事業者負担ゼロで建つことが大半だったようで、 融資を使えば簡単に併存住宅は建ったというわけです。

 大阪市の併存住宅建設事業は今では行われていないのですが、 大阪の耐火建築集合住宅の先駆けだということを知っていただきたくご紹介しました。 次に、 これに追随する形で出てきた民間の集合住宅の流れを追ってみたいと思います。

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