時代が見たい風景とは
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1.「風景」と「景観」

 

主観的(私的)なものとしての「風景」、
客観的存在としての「景観」という理解

 丸茂先生のお話の中で、 風景というものは客観的に継続的に存在しているものではなく、 見る人の主観によってその都度立ち現れるものだというご指摘がありました。 ですから風景とはいわば主観的なものであり、 個我的なものであることをまず確認しておきたいと思います。 風景が主観的な存在であれば、 客観的なものは風景とは違うものになってくることをここで取り上げておきたいと思います。

 その辺の問題を、 中村一先生が「風景と景観は相対的な区別をはっきりすべきだ」という言葉で述べています。 風景が主観的な対象であり、 景観が客観的な対象であると設定した上で、 中村先生は次のように指摘しています。

 「美しい風景と区別される美しい景観の可能性があるとしたら、 個人の主観的視覚対象としての風景が集合して、 風景を超えた美の客観性を成立させていると考えることが出来る。 この集合的主観の視覚対象が景観であるとすれば、 風景との区別もできるし、 主観から切り離された科学的景観とも区別できる。 集合する主観が多いほど景観に近くなり、 数が少ないほど風景に近づくという言い方もできる」。

 ここで大事なのは、 主観的な存在として「風景」を、 客観的な存在として「景観」を理解しようという考え方です。

 この中村先生のお話は、 私個人としては予定調和的あるいは機械論的にすぎると捉えています。 風景が主観的なものであるならば、 主体が集まってある風景を見いだしたとしても、 実態としての対象は存在し得ないと思います。 それは主観の集まりにすぎなくて、 それぞれがある対象に見いだす風景とは、 それぞれに違うものであろうから、 そうした主観がたくさん集まっても、 ひとつの客体を形成することにはならないと思います。

 また同様に、 あるひとつの都市を考えたときに、 すべての部分が誰かの風景になっている保証はないわけです。 誰も風景として認めていない部分もあって、 それが都市の景観を作り出していることもあります。

 中村先生の定義はここでの議論の重要なポイントかと思いますが、 主観が集まることでそれが客観的な景観になっていくという指摘は異論があるところです。 ただしこれは主要な話ではなく、 「主観的風景・客観的景観」を今日の議論の共通の仮説として提起したいと思います。 風景と景観をごちゃごちゃにしてしまうと、 議論がかみ合わなくなってしまいますので。


風景の私的評価基準

 また、 丸茂先生のお話の中で「風景が風景として立ち現れるとき、 外からの視線あるいは距離が風景成立のための大きな契機になっている」との指摘がありました。 さらに付け加えると、 風景は常に「美醜」という意識の対象として現れてきます。

 風景の美醜の判断はそれぞれの個人の私的な評価基準に基づいていることも指摘しておきたいと思います。 その基準は、 たぶんその人が生まれ育ってきた過程の中の「原風景」と関わりがあるのかもしれません。 その基準が千差万別であることによって、 我々が風景に下す評価も個々バラバラになってくるということが重要だと思います。

 まず第1点目のポイントは、 風景と景観を区別することであり、 主観的なものとしての風景と客観的な存在としての景観を仮に分けて議論しようということです。

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