3番目の論点は、 「では今は風景を論じる時代なのか」になります。 冒頭で松久先生がご指摘されたように、 バブル経済崩壊後に価値観を喪失し、 不安な時代の中で今は美しい風景を求める時代になったということになっていますが、 果たして今はどういう時代なのかを考える必要があるでしょう。
これに対して、 一方では崩壊や混乱、 逸脱を都市に組み込んでいくデザインが存在しています。 サイトの作品もそうですし、 ベルナール・チュミ、 マーク&フィッシャーなど、 一種の「ジャンクスケープ」「パンクスケープ」とでもいうべきものを生み出す手法が出てきています。 ただし、 こうしたものも全体的ジェントリフィケーションの中のひとつの現れであるということも言えると思います。 街が工業的手法で綺麗になっていくシステム自体を否定するわけではなくて、 一方ではそこから脱落していくことを面白がっている、 都市の中で滅んでいくものを景色として受け入れていこうという行為でもあったわけです。 ですから、 「都市を綺麗にする」同じシステムの裏表のような関係だろうと思います。
そうしたものの典型が1983年の映画「ブレード・ランナー」(リドリー・スコット監督)の中で展開された世界ではなかったかと思います。 ああいったものは、 いろいろな分野のデザインに影響を与えてきたと思います。
まとめてみると、 今はそんな時代になっています。 ですから、 現実社会はいろんな行き詰まりを持っていて、 その中で我々はこの先どこに向かおうとしているのかというビジョンを見つけたいとする過程の中で、 風景、 風景論というものが議論の対象として出てきたのかもしれないと思います。
学芸出版社の前田さんに調べてもらったところ、 1995年以降に出版された本で「風景」という言葉を含むタイトルのついた本が500冊近くになるそうで、 もちろん個々それぞれで風景の意味合いは違うでしょうが、 日本社会は今、 「風景」という言葉に託して何かを語りたがっている時代であることは間違いないようです。
3.「風景」の時代? 時代が見たがる「風景」とは
−〈亀裂〉の時代としての「今」
今の主流はモダニズム
まとめてみると、 丸茂先生もおっしゃったように今はまだ依然としてモダニズムの大潮流の中にあり、 むしろ極相に向かって前進している時代でもあります。 工業システムの中でどんどん綺麗になっていく過程が進んでおり、 それを支えているのがハイテクノロジーです。 それが生み出す景色は多分一種の工業風景(テクノスケープ)だろうし、 その大潮流が世界を覆い尽くそうとしているのが「今」の時代の一面です。 その基盤になっているのが、 資本主義社会経済、 市場経済システムで、 その空間表現としての都市のジェントリフィケーションが今進行しつつあります。
モダニズムからの逸脱−ファンタジーを求める動き
一方で、 モダニズム潮流からの逸脱に対して、 ガーデニング、 里山の再発見といった「再び田園へ回帰する」動きも見過ごせない流れとしてあります。 そんな動きをさらに探索していくと、 例えば映画ではファンタジー系が大ヒットしている。 現実世界を離れた世界を見たがっている要求に対して、 現実世界でそれを提供するのはもはや無理で、 装いきれなくなっていると言えるのかもしれません。
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