「では我々は風景をどういう形で構築できるか」と考えたとき、 現在我々に残されているものは何かを考えていく必要があろうかと思います。
今が風景を求める時代であったとしても、 かつて工業化、 都市化していった環境の進化に対して眼が追いつかないで、 環境と自分の間にギャップが発生したときに当時の眼が求めた「田園風景」「自然風景」に相当するものを、 我々は今共有できるのでしょうか。 それが、 最後の論点としてあげたい「風景モデル」は可能かということです。
もはや参照すべき基準がないのではないか。 回帰すべき原点は本当にあるのか。 かつてはみんなで共有した農村のイメージがあったのかもしれませんが、 今ではみんなで農村イメージを語ってもそれぞれ全然違うものに拡散していくかもしれません。 そうなっている時代に、 我々が共同幻想としての美しき基盤を構築できるのかが、 今日の議論の中心になってくると思います。
つまり今という時代は、 偶像としての風景を喪失している時代といえます。 そんな風に私は解釈しています。 ですから、 今我々は風景に何を求めようとしているのか、 何故風景を議論しようとしているのか、 それがここで問われてくるのではないでしょうか。
何故そのことを強調するかと言うと、 ここに集まっている我々はフィジカルな環境に関わる職業の人間であり、 中村一先生風に言うと風景ではなく景観に関わる人間だからです。 客観的な存在である景観に関わっている人間が、 何故風景を考えようとするのか、 ということです。 しかも、 私的な風景ではなく、 集団のイメージとしての風景モデルを何故考えようとしているのか。 この辺が議論のポイントになりそうだと思います。
以上、 4点の論点を提示させていただきました。 (1)風景と景観を区別して議論する、 (2)風景と風景論、 風景モデルを区別する、 (3)今は風景が問題にされる時代なのか、 何故風景なのかについての共通認識、 共通立脚点を持つ必要がある、 (4)今我々は、 共同幻想としての風景モデルを持てる時代なのか、 持てる状況なのかについて考える必要がある、 の4点です。
4.「風景モデル」は可能か
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