プロジェクト周辺とのかかわり
市民に親しまれる公共デザイン? コンセプトとデザインが空回り |
ここに行くと、 この茫漠とした空間は何なのだろうと思うわけです。 私などは、 いつもここを歩くたびにムンクの「叫び」のような状態になってしまうのですが、 このデザインはちょっと空回りだったのではないかと思います。
このことについて、 偶然小倉出身の作家の方が詩を書いておられるのを見つけたので、 ここでご紹介したいと思います。
「橋」 この橋を渡らなければならない その絶望と喜びが欠けている その橋を渡ることができる その侮辱と解放が欠けている ここは故郷ではない だれの故郷でもないがゆえに 無感情にいくつもの環境が結びつけられる 憎しみもなく いとおしさもなく 火の橋、 木の橋、 太陽の橋、 風の橋 具体的な名前をつけられ抽象化する橋の怒りのように この橋の下に一台の自転車が沈んでいる ほこりが錆のようにつもっている 私が思い出すのは、 そのねじまがった形と、 遠くにある貨物線のための鉄橋 その名前のない橋 つめたく響く音、 川で渡って来る音 |
私は小倉市民ではありませんが、 記憶に染みつくものというのは、 やはり名前をつけてどうこうというものではないという気がします。
人と場所の関係性をデザインする |
これは小倉ではなく景観整備で有名な門司港です。 港に一本の「仕切り」が入っていまして、 夏場に子供などが入れるようになっています。
いいなと思うのは一カ所スリットが入っていて、 自然の海水が入るようになっているところです。 潮位が上下しますのでそれに合わせて階段もできたりします。
名前などなくても人と場所との関係をそのままデザインしているようだと感心しています。
もう一つ感心するのは、 普通こういうものを造ると、 北九州の海はそんなにきれいなものでもないので、 「子供に何かあったらどうするんや」といった声が必ずあがるだろうと思うのですが、 そういうものを乗り越えて、 北九州市市民は北九州の海とつきあっていくしかないんだと主張していることです。