そのようなコンストラクションや社会状況、 風潮がある中で、 私は常々、 コンストラクションに関わる人はそれぞれの立場での役割を確信を持って果たしているのだろうかと考えていました。
今私が言ったストーリーの中で同じモノを作ってしまったのですから、 じゃあこういう事をもしかしたら自分のコンストラクションやまちづくり活動の中でもやっているのではないかと、 この機会にもう一度考えて頂ければ非常にありがたいと思います。 確信とは?
sheet(2)高圧線下敷公園設計 |
関西電力の27万5千ボルトの高圧線下敷が街のど真ん中をドーンと通っている所があり、 その部分はものを建ててはいけない、 草木も植えてはいけないという地役権が設定されています。
しかし街の中に横たわっており、 土地区画整理事業という行政的な事情もあって計画を変える事もできず、 しかもつくった後、 どこに移管するのかとか、 誰が管理するのかといったことが問題となっていました。
また事業コストもあるので、 民間事業者の誰がそんなヘタ地にお金をかけて開発するのか、 という話もありました。
それ以前に高圧線下敷は電磁波の影響もあるし、 そもそもそんな所に街を創って良いのかという話もあるのですが、 それでもここをなんとかしなければならなかったのです。
plan |
元々ここは山でしたから、 山の景観になるよう持っていけないかと考え、 お金をかけずに自然な地形を産み出すようなデザインにすることにしました。
歩行者導線をわざとつくらないで、 両サイドに地こぶをつけて、 次に真ん中のところに谷間をつくっただけにしました。 一番低い部分に少しだけ高木を植えて、 後は芝生オンリーで植栽など造園的な植え込みは極力なしにしました。
子供や普通の人が歩いた形跡が上塗りされてなじんでいくことで、 私が最初にデザインしたときより質が変わっていくような空間、 土地に定着していくようなものにならないかと期待しました。
竣工後8年目の今 家との関係 |
もしきちんと管理されていたらゴルフ場みたいな土地になっている筈なのですが、 市役所の人には申し訳ないのですが、 実は私は鼻から管理しないだろうと思っていました。 だから管理されなければ多分野っ原になるだろうということを想定してデザインしています。
家との間には柵も何もなく、 ただこういう地こぶがあって、 そこに木がちょっと植わっていて草っ原になっています。
モニュメントと高圧線 |
野っ原の真ん中に人が歩いたあとが残って獣道(けものみち)となっています。 8年経って、 土地の力、 そこに住む人の行為の力を借りてやっと空間が変質したと言えるでしょう。
ここでの私の確信は次のような事です。
確信(2) 自然の営み、 場の力(人の行為も含め)に期待する。 無作為の作為。 |
ただ、 これは竣工したときにはわからないんです。 最初はなんや、 しょうもない公園つくりよったやん、 という話にしかならないかもしれないのですが、 その先に期待するものがあるかもしれない。 これをデザインの要素に盛り込む事は重要だと思います。
もう一つの確信は「無作為の作為」とでも言えるでしょうか。
私は作為的にこれをつくりました。 ところが多分ここを利用している人には、 ここが作為的に創られたという事はわからないだろうと思います。 なんだか段々草ぼうぼうの原っぱになってきたなあというふうにしか誰も思っていないでしょう。
それが良いか悪いかわからないのですが、 そういうデザインの仕方もあるのではないかということです。
sheet(3)まちの力とは……仮設Eco-Sapiense Theater |
Eco-Sapienseシアター広告 |
ニュータウンは寝るだけの街、 住居を創るだけの街になりがちなところがあって、 これで本当にいいのかなという疑問を常にもっています。
そこで、 人と自然と(経済と)生きていくことの接点を含めて、 エコ・サピエンス・シアターという企画をこの場所の仮設の箱の中でやりました。
「エコ」はエコノミーとエコロジー、 「サピエンス」は人間の事です。 生きていくこと、 生活していくこと、 暮らしていくことと、 今の生活環境や自然との接点は一体何だろうということでつくってみました。
今の大阪の都心でもそうですが、 生活感が無いというか、 何か足りないというか、 生きていく感覚が薄いんですね。 ニュータウンなどでは特にそれが強い。
そういう味気ない空間、 いわゆる「ただの箱」でも、 我々は空間をプロデュースすることによって空間を、 時空をデザインする事ができるのではないか、 ということを提案しました。
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イベント広告 |
私はもう2年くらいこの企画をやっていますが、 演劇、 クラッシックのコンサート、 若手の漫才みたいなコント、 そして私の親友のシンガソングライターもやりましたし、 落語、 一人芝居、 人形劇など、 ただの箱ではありますが実に色々な事をやっています。
作って頂いた箱を裏返していただきますと真っ黒になっていますが、 「黒」が何も無い無味無臭かというと、 逆に人の活動とか営みとかを反映する力があるんだと僕は今回これをやっていて感じました。
今ここでは人の営みが続いています。 山の中のど田舎のところで、 このような演劇が繰り広げられているわけです。
×k19:
確信(3) ヒトの営み、 育みに期待。 “形”として現れないヒトの活動による時空のデザイン。 本物と呼べるヒトの生き生きを映し出すデザイン。 関わり続け、 歩み続けるデザイン。 |
形としては現れなくても、 ヒトの活動によって時空のデザインができるのです。 そして、 もしかしたらこういうものの方が、 まちの力となったり、 今後のまちの形を語っていく上では必要なものなのかもしれない。 今そういう気持ちになっています。
ここで一つだけ言っておきたいのは、 デザインとしては公民館の出し物のように素人のものをやっていても意味がなく、 「本物と呼べるヒトの生き生きを映し出すデザイン」が必要であるという事です。
例えば、 まちの商店などもそうですが、 生活をかけて真面目にやっている人は生き生きとしていて、 まちの要素のデザインとしても輝いています。
もしやるのであれば、 ただ暇でやっているだけの公民館の催しをつくるのではなくて、 本物を映し出すようなデザインやプロデュースこそが、 まちの力になっていくと私は考えています。
それから、 これは他の発表者も言っていましたが、 つくるだけではなく関わり続けていくこと、 親しみを持って歩み続けていく事も、 デザインの要素の中に入れておきべきだと思います。