葛藤の都市環境デザイン
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確信とは?

 

 そのようなコンストラクションや社会状況、 風潮がある中で、 私は常々、 コンストラクションに関わる人はそれぞれの立場での役割を確信を持って果たしているのだろうかと考えていました。

 今私が言ったストーリーの中で同じモノを作ってしまったのですから、 じゃあこういう事をもしかしたら自分のコンストラクションやまちづくり活動の中でもやっているのではないかと、 この機会にもう一度考えて頂ければ非常にありがたいと思います。


シート(1)

 シート(1)のことについてお話させていただきます。

 おそらく皆さん私が言った通りまっすぐのグリッド線に沿って折って頂いたと思いますが、 実は裏側には曲線のデザインが描かれています。 この曲線のデザインが良いかどうかは別として、 例えばこのデザインが良いと思っても、 社会やモノを創り出す環境(風潮を含めて)と合致していないと、 モノは創っていけないのです。

 実は【表に】描かれているのは私がディベロッパーに就職したときに一番最初に担当した都市区画整理事業による街区デザインです。 葛藤した思い出があるものです。

 そのとき私は空間の価値とデザイン、 社会経済環境との関係性はどうなっているのかという事に疑問をもちました。

 私がディベロッパーにいたときにこういうシークエンスの街がいいじゃないかとか、 こういうふうな形態がいいじゃないかと言っても実現できませんでした。 それはこういう簡単なシートの実験でもわかるのですが、 一般的な価値観でモノを切っていくと、 それに「乗らない」モノが出てくるのです。

 では、 例えばデザインが良くてもそれに乗らない場合はどうするのか、 ということを皆さんにも考えて頂きたいと思います。

     
     確信(1)
     目指すデザインを創出するためには、
     一方で社会上の価値づけを育てる必要がある。
 
 それについて私なりにつかんだ確信は「目指すデザインを創出するためには、 一方で社会上の位置づけ・価値を育てる必要がある」という事なのです。

 これは専門家にとっては当たり前の事かもしれませんが、 世の中の人は誰も時間を使ってこんな事では議論をしません。 しかし我々はそれについて日々葛藤しています。 【これを解決するには、 私が悩んでいても駄目です。 世の中にそういう価値観を育てていけば、 目指すデザインが支持され実現出来る可能性があると言うことなのです。 】

 加えてディベロッパーの立場で考えますと、 節度ある創り手、 商品の提供者の今後はどうなるのかという問題があります。

 今までのお客様に対するモノづくり、 空間づくりでは多発性が重視されました。 またお客様との関係については「手切れ」の良いように、 とにかくフルボリュームで「これだけたくさんあるからお買い得ですよ」というような発想でモノをつくっていました。 もちろん、 お客様もそれを期待するから、 どうしてもそういう関係が維持されるわけです。

 しかし次のステップとして、 つくりこみすぎないような良い関係性を築くことができれば、 今後は「育み」を乗せられるデザインを創出できるのではないでしょうか。 そうすればデザインの幅がもっと広がってくると思います。

 コンストラクションを商品提供として考えているディベロッパーは、 これについて考えていくべきではないでしょうか。


シート(2)

画像k08
sheet(2)高圧線下敷公園設計
 次はシート(2)ですが、 これは先ほどの街区デザインの後すぐに手がけた京阪東ローズタウン内の公園です。

 関西電力の27万5千ボルトの高圧線下敷が街のど真ん中をドーンと通っている所があり、 その部分はものを建ててはいけない、 草木も植えてはいけないという地役権が設定されています。

 しかし街の中に横たわっており、 土地区画整理事業という行政的な事情もあって計画を変える事もできず、 しかもつくった後、 どこに移管するのかとか、 誰が管理するのかといったことが問題となっていました。

 また事業コストもあるので、 民間事業者の誰がそんなヘタ地にお金をかけて開発するのか、 という話もありました。

 それ以前に高圧線下敷は電磁波の影響もあるし、 そもそもそんな所に街を創って良いのかという話もあるのですが、 それでもここをなんとかしなければならなかったのです。

画像k09
plan
 問題の高圧線下敷は幅20mの細長い形状をしています。

 元々ここは山でしたから、 山の景観になるよう持っていけないかと考え、 お金をかけずに自然な地形を産み出すようなデザインにすることにしました。

 歩行者導線をわざとつくらないで、 両サイドに地こぶをつけて、 次に真ん中のところに谷間をつくっただけにしました。 一番低い部分に少しだけ高木を植えて、 後は芝生オンリーで植栽など造園的な植え込みは極力なしにしました。

 子供や普通の人が歩いた形跡が上塗りされてなじんでいくことで、 私が最初にデザインしたときより質が変わっていくような空間、 土地に定着していくようなものにならないかと期待しました。

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竣工後8年目の今 家との関係
 これは竣工後8年経った写真です。 今は野っ原になりました。

 もしきちんと管理されていたらゴルフ場みたいな土地になっている筈なのですが、 市役所の人には申し訳ないのですが、 実は私は鼻から管理しないだろうと思っていました。 だから管理されなければ多分野っ原になるだろうということを想定してデザインしています。

 家との間には柵も何もなく、 ただこういう地こぶがあって、 そこに木がちょっと植わっていて草っ原になっています。

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モニュメントと高圧線
 少しだけモニュメントみたいなものはありますが、 それよりも上に高圧線がバアッと走っている様子を見て下さい。

 野っ原の真ん中に人が歩いたあとが残って獣道(けものみち)となっています。 8年経って、 土地の力、 そこに住む人の行為の力を借りてやっと空間が変質したと言えるでしょう。

 ここでの私の確信は次のような事です。

     
     確信(2)
     自然の営み、 場の力(人の行為も含め)に期待する。
     無作為の作為。
 
 先ほどモノが多発すると言いましたが、 多発したモノに対して我々ができるデザイン上の要素がまだあるのではないか、 それは形だけではなくて「自然の営み、 場の力(人の行為を含む)」といったものも当てはまるのではないかということです。

 ただ、 これは竣工したときにはわからないんです。 最初はなんや、 しょうもない公園つくりよったやん、 という話にしかならないかもしれないのですが、 その先に期待するものがあるかもしれない。 これをデザインの要素に盛り込む事は重要だと思います。

 もう一つの確信は「無作為の作為」とでも言えるでしょうか。

 私は作為的にこれをつくりました。 ところが多分ここを利用している人には、 ここが作為的に創られたという事はわからないだろうと思います。 なんだか段々草ぼうぼうの原っぱになってきたなあというふうにしか誰も思っていないでしょう。

 それが良いか悪いかわからないのですが、 そういうデザインの仕方もあるのではないかということです。


シート(3)

 最後のシート(3)は箱になっています。

 先ほど私はこういった無味無臭の箱が沢山出来てくる事に葛藤を覚えるという言い方をしましたが、 それでは出来てしまったモノに対して、 さらにデザインすることはできないかということを今私は考えています。

 それは図面などには表れてこないデザインであって、 今後はそのようなものがまちの力になるのではないかと考えています。

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sheet(3)まちの力とは……仮設Eco-Sapiense Theater
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Eco-Sapienseシアター広告
 実は先ほどと同じ京阪東ローズタウンに全く使われていない空間がありました。 しかもそこは、 駅前の街の中心にある商業区域で、 経済がどん底の今は開発も起こらないという状況になっていました。

 ニュータウンは寝るだけの街、 住居を創るだけの街になりがちなところがあって、 これで本当にいいのかなという疑問を常にもっています。

 そこで、 人と自然と(経済と)生きていくことの接点を含めて、 エコ・サピエンス・シアターという企画をこの場所の仮設の箱の中でやりました。

 「エコ」はエコノミーとエコロジー、 「サピエンス」は人間の事です。 生きていくこと、 生活していくこと、 暮らしていくことと、 今の生活環境や自然との接点は一体何だろうということでつくってみました。

 今の大阪の都心でもそうですが、 生活感が無いというか、 何か足りないというか、 生きていく感覚が薄いんですね。 ニュータウンなどでは特にそれが強い。

 そういう味気ない空間、 いわゆる「ただの箱」でも、 我々は空間をプロデュースすることによって空間を、 時空をデザインする事ができるのではないか、 ということを提案しました。

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×k17:同上《同上》

 私はもう2年くらいこの企画をやっていますが、 演劇、 クラッシックのコンサート、 若手の漫才みたいなコント、 そして私の親友のシンガソングライターもやりましたし、 落語、 一人芝居、 人形劇など、 ただの箱ではありますが実に色々な事をやっています。

 作って頂いた箱を裏返していただきますと真っ黒になっていますが、 「黒」が何も無い無味無臭かというと、 逆に人の活動とか営みとかを反映する力があるんだと僕は今回これをやっていて感じました。

 今ここでは人の営みが続いています。 山の中のど田舎のところで、 このような演劇が繰り広げられているわけです。

×k19

     
     確信(3)
     ヒトの営み、 育みに期待。
     “形”として現れないヒトの活動による時空のデザイン。
     本物と呼べるヒトの生き生きを映し出すデザイン。
     関わり続け、 歩み続けるデザイン。
 
 そこで私の確信の3番目は、 先ほどは自然の営みに期待すると言いましたが、 今度は「ヒトの活動・営み・育みに期待」してみようかな、 そういうのもデザイン要素上必要なのではないかという事なのです。

 形としては現れなくても、 ヒトの活動によって時空のデザインができるのです。 そして、 もしかしたらこういうものの方が、 まちの力となったり、 今後のまちの形を語っていく上では必要なものなのかもしれない。 今そういう気持ちになっています。

 ここで一つだけ言っておきたいのは、 デザインとしては公民館の出し物のように素人のものをやっていても意味がなく、 「本物と呼べるヒトの生き生きを映し出すデザイン」が必要であるという事です。

 例えば、 まちの商店などもそうですが、 生活をかけて真面目にやっている人は生き生きとしていて、 まちの要素のデザインとしても輝いています。

 もしやるのであれば、 ただ暇でやっているだけの公民館の催しをつくるのではなくて、 本物を映し出すようなデザインやプロデュースこそが、 まちの力になっていくと私は考えています。

 それから、 これは他の発表者も言っていましたが、 つくるだけではなく関わり続けていくこと、 親しみを持って歩み続けていく事も、 デザインの要素の中に入れておきべきだと思います。

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