モデルとしての眼前の都市風景
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2)私の35年と都市のデザイン
 ― 仕事一筋の時代

 

 その結果どういう仕事をやってきたかを八つ、 簡単に紹介します。


1。 スーパーマーケット、 マンション
(都市化の時代)

 まずはスーパーマーケットとマンションです。

 スーパーマーケットは、 そのおかげで都心部はガラガラになるし郊外はバラバラに広がるしと、 都市というものをスプロールで形の無いものにしてしまった元凶みたいなものです。 それから、 マンションは都市にどんどん集中してくる人を入れる器です。

 私達はこれらの「都市化の時代」という大きな流れを象徴するものに携わったことになります。

 弁解する気は毛頭ありませんが、 実を言うと私はショッピングセンターが本当に嫌いだったので、 それをつくるのがうまかった同僚にまかせて、 意識的に関わらないようにしていました。 私は非常にラッキーだったと思います。

 それからマンションについては、 今でこそこれだけマンションが建っていますが、 私が入社した頃は、 これからは住宅産業だ、 マンションだという時代だったので、 これに私は情熱を傾けました。 開発計画本部自体もマンション計画を新しいマーケットとして相当手がけました。

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住宅団地 写真
 これはまだイタリアに行く前の仕事ですが、 1200戸ほどの住宅団地を設計したものです。

 手前にある小さな神社と住宅団地との結びつきを一番のポイントにして計画しました。 住宅はプレハブリケーションのプロトタイプとして実験的に造りはじめたものです。 一棟が百戸ちょっとで全体で1200戸ほどの住宅団地となっています。

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段状マンション 模型
 高層マンションもやりましたがすぐ一般的になったので、 我々はむしろ段状アパートに興味を持ちました。 特に阪神間では六甲の傾斜地などに段状マンションをつくりたいと奔走したことを覚えています。

 段状マンションについては、 スイスのジュネーブ郊外に建てられたアトリエファイブの作品に影響されたものです。 私達の時代にはこれに影響された人は随分沢山います。


2。 小泉製麻、 中之島中央公会堂
(ストックの活用)

 次に小泉製麻のレンガ倉庫の利用と、 中之島中央公会堂のライトアップを手がけました。

 この二つはまさに私がイタリアから帰国後はっきり意識した「ストック」という事がテーマになるわけですから、 私は本当に一生懸命やりました。

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小泉製麻レンガ倉庫 再生利用プロジェクト

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同上 震災で全壊した
 これは小泉製麻レンガ倉庫の再生利用プロジェクトですが、 震災で全壊しました。 もし昼間地震が起きていたら大変な事になっただろうと思います。

 このプロジェクトは私にとってはストックをテーマにした渾身の仕事でしたが、 被災したことがそのことを一層重く、 より真摯に考えるきっかけになりました。 ストックというものはそう軽々しくできるものではない。 「モノ」をストックしていくには、 ある意味で命懸けでそこに価値を認める思い込みが求められる。 ストックを前提としている都市や国はもちろんただの流行でやっているのではなく、 大変な覚悟をしているのだという事を私は今改めて噛みしめています。

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中之島中央公会堂のライトアップ実験
 こちらは中之島中央公会堂で一晩だけライトアップの実験をしたときの写真です。

 このライトアップされた風景一つで、 壊すと決まっていた中央公会堂を、 壊すのはもったいないというふうに流れを変えたというのは言い過ぎかもしれませんが、 見直させるきっかけになったことは確かでしょう。

 今もほぼこれに近いライトアップをしていますが、 今私にやらせてくれたら「あんな下手な事はしない」「もっと上手にしみじみとしたライトアップをやるんだけどなあ」と思っています。


3。 オープンモール、 シンボルロード
(都市の自然、 法制度との戦い)

 3番目はオープンモールとシンボルロードです。

 当時「伊勢佐木モール」という横浜のプロジェクトがありました。 アーケードを撤去して雨の降る商店街をつくろうという画期的なもので、 私もこれをやりたいと思っていたところに関西で手がけることになりました。

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オープンモール 徳島市銀座商店街
 これは徳島市の中心部にある銀座商店街です。

 元々アーケードは無かったのですが、 それをここにかけようかと真剣に悩んでおられたときに私達が入っていって、 アーケードなんかやめましょう。 それよりこれを機会に街並みを整理しましょう。 そしてまわりの建物にも波及させましょうと訴えまして、 かなり強引にオープンモールにしてしまったというものです。

 またここは車道と歩道とに分かれた道路構造になっており、 道路交通法もそれに従って適用されるという事で、 実に難解な謎解きをしながら計画を進めていきました。

 ところが現在は自転車が放置されていますし、 モールの中央部に植わっていたケヤキは枝がずたずたに切られて、 とても美しいケヤキの形とはいえない状態です。

 私としても本当にオープンモールで良かったのか?と思いますし、 あるいはオープンモールは良いとしても、 このケヤキが良かったとはとても思えません。

 実はここの道路幅は11mなのですが、 伊勢佐木モールは14mあります。 この3mの差が結構大きかったのではないかと思っています。

 オープンモール計画を通して、 私は「都市の自然」をいかに大事にするかという一つの大きなテーマに出会いました。 またそれと同時に、 都市のオープンスペースをがんじがらめにしている道路行政や法制度といったものを、 いかにソフトに崩していくかという戦いを挑んでいきました。

 これについては、 いせざきモールのプロジェクトの報告を見て頂ければわかるのですが、 そこにはいかに法制度と戦ったかということが綿々と書かれています。 それは行政側と戦ったというよりも、 行政も戦ったのです。 行政自身もいかに法制度を解釈し緩めていって新しいスペースを創っていくかという事を考えた時代だったわけです。

 最近のオープンモールを見ますと、 我々があれほど一生懸命やったことが、 あっという間に普通になってしまいました。 それもあのときの戦いの意味があったからこそだと思っています。

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シンボルロード整備事業 徳島紺屋町
 次にシンボルロードですが、 1984年にシンボルロード整備事業が始まって、 その第一号が徳島市の紺屋町の事例でした。

 ここは元々3車線プラス駐車帯だったのですが、 車道を片側二車線に縮小しました。 当時のオープンモールでは車道をいかに縮小できるかが大きな課題で、 具体的には交通量の計算や警察との折衝などに大きなエネルギーを費やしました。

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同上 路盤
 また、 ここでは路盤のパターンに阿波の藍染めの絣の模様を入れるなど、 たわいもない事を一生懸命考えて複雑な模様をデザインしたりしました。

 当時どこのオープンモールでもそのような事をやっていましたが、 実際にやってみてすぐ、 「道路でこういう事はやってはいけない」と思いました。

 これが商店街のモールであれば商店主が皆で出資し合ってつくるもので、 その維持管理は商店街がやりますから20年も経てば取り替える事もできる一種の「装い」のようなものと言えますが、 シンボルロードと呼ばれるような公共空間でこのような事をするのは良くない。 特にエイジングの良さが期待できないタイル張りは本当に良くないと、 ここを手がけた事で考えさせられました。

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シンボルロード整備事業 堺市大小路通り
 堺市の大小路通りのシンボルロードでも同じように車線をぐっと縮小して歩道を広げ、 そこに様々な催しの装置を用意しました。 ここでは鳴海先生が委員にいらっしゃいました。 これが鳴海先生に初めてお会いして、 一緒にやらせていただいた仕事だったと思います。

 ここでは、 少なくともタイル張りは止めようという事で、 自然石とレンガを敷きました。 レンガは全部厚みが60mmはある本物でしたが、 どうしても小端立てではできずに平(ヒラ)で敷きました。 するとやはりレンガが浮いてきたり割れたりしました。 やはりレンガを敷くときは小端で考えるのが原則だと感じました。 ヒラでは、 「張る」と言うべきで、 小端立てで初めて「敷く」と言えるのではないでしょうか。

 ただこの計画では、 割れてもそのまま使えるものがストックだという事でそれなりにストックにこだわったデザインではあったのです。

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歩道のレンガ敷きとモニュメント
 この左にある妙なモニュメントや植栽などは、 私達とは全く関係のない所で計画されたものです。 我々が道路構造や道路行政に関する事に一生懸命になりすぎて、 せいぜいペイヴメントの材料を考えるくらいで、 その他の所に全く気がまわらなかったという事です。

 トータルに考えるという視点が抜けていた事がこれを見るとよくわかります。


4。 シンボルゾーン
(コンパクトシティ)

 4番目に、 私が「コンパクトシティ」という事をはっきり意識した仕事として、 岡山市の文化シンボルゾーンをご紹介します。

 この計画は当時の岡山市長が今期で辞める事になり、 余り金をかけずに何か形として残るプロジェクトはないかといってるところに、 市に建設省から来ていた担当者と私とがちょうど良いタイミングで出会ったことで始まったものです。

 これは会社にとっては仕事にならないものでしたので、 私は報告もほとんどせず、 ワンマンプロジェクトのような状態で2年間携わりました。

 それでもこれは私の35年間の仕事の中で最も自慢できる仕事のひとつだと思っています。

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岡山市文化シンボルゾーン 計画図
 これが岡山の文化シンボルゾーンです。 黒く見える所が後楽園と岡山城です。

 イタリアの街はもちろんストックを前提とした都市ですが、 そのようなストックの都市には必ずチェントロ・ストリコ(Centro Storico)、 歴史的中心市街地というものがあります。

 しかし日本ではそれがどんどん崩壊しているという状況でしたので、 いかに日本でチェントロ・ストリコを作れるか、 というテーマが自分の中にありました。

 そこで岡山の旧城下町の範囲をチェントロ・ストリコとして守っていきましょうという提案をしました。

 このエリアは岡山市の歴史的都心であり、 またこの地区の中には岡山県庁舎などの官公庁舎、 学校、 東洋文化美術館などの公共施設が沢山あり、 岡山で一番古くて由緒のある商店街もあります。

 そこで、 そういった公共施設の庭や空き地を解放していくことによって、 街を一体のものとして繋ぐオープンスペースの連続をつくろうと提案しました。 市もこれならすぐやれるということで採用され、 それぞれの部局と相談しながら、 この地区でやる事業をリストアップしていきました。

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岡山市文化シンボルゾーン
 例えばこれは高校の塀を撤去してバックさせて作ったオープンスペースです。 こういったオープンモールやオープンスペースを結んでいって全体を繋いでいきました。

 今行くと、 このエリアは岡山市文化シンボルゾーンという名称で見事にできています。 日本人の大好きな緑や水、 歴史ある施設、 そして新しい施設が一体となっていて、 皆さんも行かれれば本当に良い街だと思われると思います。


5。 市街地再開発、 再建マンション
(再開発)

 5番目は市街地再開発です。 私たちも再開発法に基づいて、 日本各地で駅前や商店街といった所をどんどん再開発していきました。 とはいっても、 会場に来ておられる同僚の有光さんがこの再開発事業をガンガンやられていましたので、 私の出る幕はほとんどありませんでした。

 再開発事業というものは、 既存の街は壊れるし、 「やらない方が良かったね」と言われたりすることもあります。 そういう意味では都市デザイン的にはやりがいの少ない仕事です。 しかし実際は再開発によって街が随分造り替えられ、 生き返ったと思いますし、 日本中に沢山の実績があります。

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再開発事業 吹田北口
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再開発事業 吹田北口 駅前広場
 私がやったと言えるのはJR吹田駅北口の再開発ぐらいかもしれませんが、 この計画でも都市のスケールを大きく変えました。 またここの駅前広場は佐々木さんのデザインによるものです。

 それから震災後に同じ再開発の手法を使って再建マンションに取り組みました。 これは再開発の再開発という事がやがて必要になってきたときにどうするかという問いへの一つの答えにもなりました。

 再開発事業は既存の街の何倍にも容積を上げ、 ボリュームを大きくして生み出した床を売却する事によって成り立っているわけです。 しかし再建マンションの場合は基本的には容積を増やすことなく、 自己負担で再開発をすることになります。 自己負担、 自己責任で再開発をやるまちづくりというものが、 これからは必要だと思いますが、 再建マンションでその経験をしたことになると思います。

 また同じ震災復興プロジェクトで六甲道駅南口の再開発があります。 今ここにおられる有光さん、 森重さん、 江川さん、 斉藤さんなど沢山の仲間とやりました。

 これは非常に大きなプロジェクトで、 このように沢山で携わったものですから、 ただでさえめちゃくちゃなデザインになりがちな再開発が、 大変な事になるということで、 デザインコードを持ち込んで皆で調整しながら進めました。 この手法を取り入れた事は私にとって素晴らしい経験になりました。


6. OBP
(ビッグプロジェクト)

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OBP
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コルビジェの絵
 6番目にはビックプロジェクトの代表としてOBP(大阪ビジネスパーク)をご紹介します。 これはアテネ憲章が1933年に出されてから約半世紀を経て1970年頃につくられました。

 まさにコルビジェのこの絵を半世紀後につくったということがわかります。 つまり半世紀遅れで近代都市計画が日本でやっとできたというわけです。 そういう位置づけとして見ていただければと思います。


7。 ビッグステップ
(場所を読む)

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ビッグステップ
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入口大階段
 それから7番目はビッグステップです。 これはアメリカ村のプロジェクトですが、 ここで私は「場所を読む」という経験をしました。

 その頃私はアメリカ村に毎日のように通っていて親しい場所になっていたので、 場所についてほとんど知り尽くしていました。 そんな時にこのプロジェクトが始まりました。 この「場所」をいかに建築にしていくか、 つまり都市を建築にしていくというプロセスをここではとりました。

 よく「都市的な建築」というような言い方をしますが、 私はここで「都市」を「建築」にしたのです。

 アメリカ村のあの複雑に入り込んだ路地の中、 あるいは建物の隙間に入って行き、 さらに建物の中から次の建物の中へ入っていくという、 あの複雑な街をいかにして建築にしていくか。 それによって実は大きな建築物であるにもかかわらず、 街がとけ込んできたような、 街そのもののような、 そういう場所をつくるという経験を通して、 「場所を読む」ことでデザインするという一つの手法をつかんだと思います。 町の魅力を見出して引き出し、 更にそれをより強くするというデザインです。


8。 提案
(コンパクトシティ)

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夢シティ計画イメージパース
 最後は提案なのですが、 震災後に神戸市の主宰による「夢シティ」という国際コンペがあり、 我々がそれ応募して優秀案に選ばれました。

 ここで私達はコンパクトシティ、 成長管理、 参加という三つの提案をしました。 「ストック」という大きな枠の中の具体的なテーマとして、 この三つのキーワードを掲げていくということが大事ではないかということに私もようやく気づいていました。

 これは実は「都市」の提案が求められていたのですが、 私達は美しい「田園」を提案しました。 そこでは「都市の退路を断つ」をテーマに、 によって田園を破壊しながらスプロールしつづける都市というものにNOを言うという、 つまり田園側から都市を規制することを提案しました。

 というのは、 農村を見てみると農村もまたスプロールしている。 ではどうやってスプロールを収束させるか。 農村をコンパクトにまとめていって美しい田園をつくるという計画を提案し、 都市は都市でこれと同じように考えてやりなさい、 という提案でした。

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夢洲 提案
 この提案のすぐ後に大阪市の夢洲でまちづくりの提案をしました。 オリンピックの選手村予定地だった場所を借りて、 ここでも先程と同じくコンパクトシティの考え方でまとめてみました。

 真ん中のおむすび型の地区が住宅地で、 一番下の地区が物流センター、 左上に公園などのオープンスペースを集めました。 住宅の市街地を半径1km以内の、 全部歩いて行ける範囲にコンパクトにまとめてしまうという計画です。

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