モデルとしての眼前の都市風景
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1)私の35年と都市のデザイン
 − 学生時代からイタリア留学まで

 

趣旨説明

松久(司会・フォーラム委員長)

 今年はセミナーとフォーラムを連携させて行うことになりました。 フォーラムは風景をテーマに行なうのですが、 5月に第1回のプレフォーラム&セミナーを行い、 今なぜ風景モデルかというテーマで丸茂先生と上野先生にご講演いただきました。

 丸茂先生には、 都市風景をめぐる考え方や動向についての整理と説明をして頂きました。 上野先生からは、 今が風景を求める時代であるとしても、 参照すべき基準、 あるいは回帰すべき契機を失った今、 予定調和の風景モデルは可能かといった内容で、 風景論をもう一度見直して頂きました。

 前回は歴史原論的な内容でしたので、 今回はもう少し実践的な内容として、 井口先生から一人のデザイナーからみた風景論について深く掘り下げて頂きたいと思います。 また後ほど佐々木先生との対談を予定しています。

 井口先生は今現在京都造形芸術大学の教授で、 それまで35年間、 竹中工務店で数々のプロジェクトを担当されました。

 それではよろしくお願いします。

井口

 松久先生から紹介がありましたように、 次のフォーラムに向けて色々と話し合う中で、 都市デザインをやっていくときに、 どのようなものを手がかりとしていくか、 またその手がかりとなるようなモデルが今の日本にあるか、 という議論がありました。

 今日の私の話はタイトル通りそのモデルが「目の前にある」ということをテーマにしています。 私が「ある」と言っても本当にそうなのか、 皆さんはどう思われるのか投げかけてみようというのが今日の主題です。


学生時代〜「日本の都市空間」と「東京計画1960」

 私は1965年に大学を卒業してから2000年春までのちょうど35年間、 竹中工務店で都市と建築の仕事をしました。 また同時に環境開発研究所(出向)で都市設計やコンサルタントの仕事もやってきました。 今日はその両方の仕事を皆さんに見て頂きながら、 私がその間に考えたこと、 そして今考えていることをお話したいと思います。

 私は1961年に大学に入ったわけですが、 ちょうどその頃、 『建築文化』の特集「日本の都市空間」(1963年)が出版されました。 これを見て懐かしいと思われる方もいらっしゃるでしょう。 これは現在も同タイトルで単行本として出版されていますが、 40年経って未だに売れているそうです。

 これは伊藤ていじ、 磯崎新、 土田旭といった東大の建築学科出身の人達がまとめたもので、 お城や清水寺、 先斗町、 それから村の風景など、 日本各地の伝統的な集落に見られる都市デザインに関するボキャブラリーを整理したものです。

 この本が出版された背景には、 1961年にゴードン・カレン(英)の『タウン・スケープ』(日本版タイトルは『都市の景観』)という、 イギリスの街の風景から都市デザインを考えていこうという本が出たことがあります。

 また、 同じ年にジェーン・ジェイコブズ(米)が『アメリカ大都市の生と死』という本を出しました。 日本版は1969年とかなり遅れて出版されましたが、 これらがわが国でも都市デザインに注目し始めるきっかけになりました。

 これらの本の影響を受けて、 いわゆる都市デザイン、 アーバン・デザインといったものが、 建築家の中で注目され始め、 日本でもやってみようじゃないかという事で生まれたのがこの『日本の都市空間』だったわけです。

 私は学生時代にこれにとりつかれ、 それ以来この『日本の都市空間』は我々世代の一つのバイブルになりました。 つまり都市というのは、 こういう考え方を元にしてデザインしていくのだという固定観念みたいなものがずっと我々の世代にはあるのです。

 そして、 JUDIの中心的な考え方も、 もしかしたらここにあるのかもしれません。

 さて一方、 同じ時期にやはり東大の丹下健三さんが「東京計画1960」を出しました。

 これは東京湾に壮大な海上都市を建設しようという計画でした。 わかりやすく言えば日本経済の高度成長を展望して、 これからのあるべきまちづくりは経済優先、 つまり効率的に組み立てられた都市の建設だということを強烈なイメージとして示したものでした。

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丹下健三の東京計画1960
 そういうことで、 我々は学生時代に、 同じ東大から出てきた二つの流れ……「都市空間型」デザインと、 これからは都市開発だという「1960年型」デザインとでもいうべき考え方を同時に勉強したのです。

 当時の私の教授も東大出身で丹下さんの弟子だった人でしたが、 既に1960年型の計画には批判的でした。 私も気分的には「都市空間型」でしたが、 「1960年型」にも非常に魅力を感じていました。 要するに本質的には何も分かっていなかった。 そのような状況で勉強してきたわけです。

 余談として一つ付け加えておきますと、 10年ほど前に初めて気がついたのですが、 丹下さんは「東京計画1960」を発表すると同時に、 「日本列島の将来像」という本も出しています。 私もそのとき読んだはずですが、 見過ごしたようで目に入らなかった事があります。

 これは簡単な内容でして、 もちろん1960年型を肯定的に語り、 これからの日本について壮大なビジョンを展開しています。 しかしそれと同時に、 住民参加、 あるいは日本の都市空間をどのように守り育てていくのかが大事であると書いてあります。

 つまり丹下さんは「都市空間型」と「1960年型」、 この二つの矛盾するような都市デザインの方向を両方とも知った上で、 私の役割は1960年型ですとここで宣言していたのだなと思います。

 もう一つ、 1963年に『新都市の計画』という本が鹿島出版から出されました。 イギリスのフックニュータウン計画についての本でしたが、 これは実は「1960年型」の新都市の開発と「都市空間型」つまりアーバンデザイン計画、 この二つを合わせた計画だったのです。

 私達は「これだ!これで何とかいけるのじゃないか」と強く思いました。 これは高蔵寺ニュータウンの計画に実際に活かされ、 日本型フックニュータウンとでもいうべき事が試みられています。

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フックニュータウンの計画。 中央黒い所がセンター
 肝心のフックニュータウンの方は残念ながら机上のプランで終わっていますが、 今読んでも非常に魅力的な計画です。 それまでの近隣住区型のニュータウン計画から、 センターを重視した形に変えていった、 その中心部のアーバニティといった事をデザインとして考えていった、 そういう計画でした。

 このように大きくは「都市空間型」「1960年型」という二つの柱を抱えつつ、 その二つを合わせたフックニュータウンのような計画もあると感じながら、 私は大学を出ました。


竹中時代〜超高層、 高速道路、 人工地盤

 1965年に卒業してすぐに竹中工務店の開発計画本部に入りました。

 どうして開発計画本部に入ったかというと、 その前年の『新建築』に竹中の開発計画本部で大阪の堂島再開発計画と中之島再開発計画という二つの再開発計画をやっているという紹介がありましたが、 それがまさに私がやりたいと思っている事そのものだったわけです。

 この開発計画本部という部署は、 竹中の設計部と当時ハーバードから帰ってきたばかりの槇文彦さんの指導でつくられたチームが基礎になっていました。

 そういうわけで、 私はそこに入ってから、 堂島再開発と中之島再開発というこの二つのプロジェクトに代表される都市開発をやることになります。 それは最初に言った二つの流れのうち高度経済成長志向の「1960年型」デザインでした。

 そのころ槇さんの指導を受けた我々開発計画本部の都市デザインのキーワードは「超高層」「人工地盤」「高速道路」の三つでした。 私達はこの三つのキーワードでほとんどの絵を描いていきました。 これは私たちだけではなく、 その当時の建築雑誌に発表されている都市開発に関する提案の多くがそうでした。

 そのうちの一つが私が長く関わったOBP(大阪ビジネスパーク)のマスタープランであり、 ちょうどその頃始まった阿倍野地区再開発計画もこの考え方で最初の構想をつくりました。

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中之島地区再開発
 これが中之島地区再開発です。

 写真中央に道路が横切っていますけれども、 そこにブリッジがかかって両側に人工地盤があります。 それから丸い四つの穴が開いている所が駐車場の入口です。 右上に高速道路が見えています。

 高速道路と人工地盤と超高層という三つのボキャブラリーがきれいに表れています。

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同上
 人工地盤上の都市の風景、 こういうものを私たちは素晴らしいと思って、 ずっと提案していたわけです。

 そうやって一気に1970年の万博まで突っ走っていきました。


イタリア留学

 そういう事をやっていくうちに、 私の中で「都市空間型」と「1960年型」の二つの考え方の整合性ということがどうしてもとれなくなり、 このままでいいのだろうか、 自分のやっていることは本当にこれでいいのだろうかと思い始め、 5年ほど色々と悩みながら仕事を続けていました。

 そしてとうとう会社を休職して、 とにかく都市デザインの元祖であり、 常にヨーロッパの都市デザインのテキストになっているイタリアに行くことにしました。 そこに2年間滞在してようやく自分なりに納得するものをつかんで帰ってきてからは、 ずっと悩まずに、 ほとんど頭を空っぽにして仕事ばかりやってくることができました。

 それでイタリアで何を得たのかと言いますと、 それはまず「都市とは何か」ということでした。 自分がそれまで思っていたものと全然違う「都市」というものが初めて分かった気がしました。

 イタリアでそれに気がついて、 こうじゃないかなと思い始めた事を確かめるために、 私は結局、 帰り道はいわゆるシルクロードをバスとか汽車を乗り継いで、 インドまで、 ずっと地べたを這うようにして帰ってきました。 そこでチグリスユーフラテス辺りの都市の源流を訪ねたり、 もちろん地中海のトルコ・ギリシャも歩きました。

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ニネベ
 二ネベは帰りに通ったメソポタミア流域の都市の一つです。 イラクにあって今は行くことができません。

 そういう事を経験して、 都市というものについて自分なりにつかむものがあったわけです。 そのことを話すのは今日の主旨ではありませんので止めておきますが結論だけ言いますと、 「いわゆる『日本の都市空間』型の都市開発、 あるいは都市デザインというものは日本では不可能だ。 今の日本の都市開発でそういう事を考える事は殆んど意味がない。 あるいは自分が余りにも無力である」という確信を持って帰ってきました。

 じゃあ頭空っぽでどんどん都市開発すればいいのかというと、 まあほとんどそれに近いのですが、 ただ一つ私が帰ってきてから考えたのは「都市はストックだ」ということです。

 ですから我々は今からストックをつくり始めるのだ。 そこに新しい『日本の都市空間』が成立するのを待とう。 それは300年先だろうと考えたのです。

 すでに在るものを壊さないのは大事ですが現実には毎日壊されていく。 そうであれば、 今つくるものをストックとして考えて、 これは将来にわたって決して壊さない、 それにふさわしいデザインをしていくのだと思い込んでデザインする事にしました。

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