京都は再生するか〜百年後の水と緑をデザインする
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「セミナーを終えて」

ウエノデザイン 上野 泰

 

 2000年の「UNBUILD UENODESIGN=都市環境の遺伝子治療」、 2001年の「緑としての建築」、 そして今年の「100年後の水と緑をデザインする」という、 3年にわたる都市における「自然的環境の再生」と、 都市環境の「部分からの改変」というテーマで行った、 3回シリーズのセミナーを終えたいま、 改めて振り返ってみて、 所期の成果をあげられたのかと問われるならば、 その答えは残念ながら否定的なものとならざるを得ない。

 そもそも我々が提起しようとしたテーマが、 はたして共有されたのだろうか、 という疑問を抱かざるをえない。 したがって、 我々が3回のシリーズでくり返し語ってきた、 都市環境再生のために「蒸散機能を持つ植物によって造り出される“クールスポット”によって都市を包み込む」というコンセプトが、 どの程度理解されたのかは疑問である。 そして「何故このような事を問題としなければならないのか」という基本的なところが説明しきれていなかったという事であれば、 こちら側の責任であり反省すべき点である。 しかし、 それが無関心の結果であるとすれば問題である。 昨年のセミナーの後に行ったアンケートの結果でも、 我々の提言に対する具体的な「代替案」の提案は残念ながら皆無といって良かった。

 「渋谷の屋上菜園都市化計画」という本(築地書館 2002)を出した渋谷区役所緑化推進主査の小嶋和好氏は、 その著書の中で建築家や設計事務所からの「環境問題は別の次元の問題であり、 我々の業界に持ち込まないでくれ」という声を紹介している。 もしこうした「声」がJUDIでもあるとすれば大変残念なことであるといわざるを得ない。

 今年のセミナーの狙いは「21世紀のモンスーン・アジアの街のあり方」と、 世代を超えた城巽の人々の「水と緑」に寄せる思いを重ね合わせて、 明日の京都の町の姿を探るとというものであった。 セミナーでも触れたが、 いま、 「21世紀のモンスーンアジアの街の姿」が徐々に収斂しつつあるのではないかと考えている。 そしてその方向はこれまで我々が“直感的に”進めてきた方向と合致するものであり、 我々の目指してきた方向は、 誤りではなかったと言う思いがある。 そして、 それが「マンハッタン・モデル」ではないもう一つのこれからの都市の姿を、 見出す事につながるのではないか、 という期待にもつながっている。

 しかし「問題提起」としても、 その意図を十分に伝えられなかったのではないかという反省がある。 結果として課題を整理し切れなかった点があり、 焦点を絞りきれていない印象を与えた上に、 「何を、 どう表現すべきなのか?」というプレゼンテーションとしての完成度の問題もあった。 結果的に説得力のある、 魅力的な画像を提供できなかったといえる。

 また、 (壮大な?)タイトルの印象とセミナーの内容のズレを指摘する意見もあった。 今回のアウトプットが、 「答え」を示す具体的「プロジェクト」ではなく、 「問題提起」であるという主旨が必ずしも理解されなかった。 そして実現性を問うことよりも、 先ず「目的を語ることが大切ではないか」という、 アプローチそのものが十分に理解されなかったといえるだろう。

 そのような結果を招いた背景として、 我々の準備不足と力量不足があったという事は否定できない。 僅か半年という時間的制約の中で、 初顔合わせのメンバーがそれぞれが仕事や学業の合間にワーキングを行い、 僅か一ヶ月半の期間にプレゼンテーションを作成しなければならなかった、 という条件下ではやむをえなかったともいえる。 お互いに何を考えているのかが、 ようやく分かり始めた頃に、 終わりを迎えなければならなかった。 またメンバーの意見も必ずしも一致点を見出したわけではなく、 いくつかの点で意見を異にしたまま終わりを迎えねばならなかった。 これは企画上の反省点である。

 今年のセミナーは昨年に引き続き京都をテーマに取り上げた為、 再び「京都らしさ」という問題に取り組む事になった。 漠然とした「京都らしさ」という一般的イメージと、 眼前の現実の京都のまちの姿と、 これからの京都のあり方に橋をかけることに成功したとはいい難い。 このようなテーマを考えるフィールドが、 「何故京都なのか」という指摘もあった。

 しかし、 都市環境の再生と、 その都市の持つ歴史的、 風土的文脈の両立という問題は、 京都のみならず世界中の全ての都市に共通する課題であって、 その意味ではその問題が最も鮮明に立ち現れる都市として京都を選んだ事は、 結果の可否は別として適切であったといえるだろう。 一方京都で、 何故都市環境の再生といった問題を考えなければならないのか、 という問いもあった。 このような問いに対して、 改めて京都もまた例外ではない、 現代都市が抱えている問題を共有できているのか?という根本的疑問に立ち返らざるをえない。 京都こそ「環境先進都市」でなければならないのではないか。

 結局のところ、 問題提起への反応は昨年のセミナーの結果に引き続き、 「好き/嫌い」というレベルに止まりがちであったといえるのではないか。 昨年のアンケートにせよ「代替案」の提示はまったくと言って良いほどなかった根底に、 「何故こうした事がが問題となるのか」、 という基本的なところでの意識のズレがあることは否定できないだろう。

 確かに「問題」を十分に説明し切れなかった、 というこちら側の反省点はあるにせよ、 それ以前にどうしても都市環境に対する危機感の希薄さを感じざるをえない。

 第2回のプレセッション報告でコメントを紹介した可部篤氏から再び熱心なコメント(次項に掲載)をいただいた。 この場を借りてお礼を申し上げたい。

 しかし、 残念ながら氏が言及している屋上(あるいは建築)緑化一般と、 我々が提言している夏季遮熱を目的とした、 「植物で構成されるクールスポットで都市を包み込む」、 「都市を構成する“蓄熱材”に太陽熱を受熱させない」というコンセプトにはズレがあり、 したがって議論がかみ合わない結果となっているように思える。 我々は決してわが国の気候条件に合わない、 本来冬季断熱が主目的であるはずの、 「土置き型」の(特に商品化されている薄層タイプの)屋上緑化等を評価しているわけではない。 また我々は、 建築緑化でなければならないと主張しているわけでもない。 「緑としての建築」とは、 建築を計画する事が「緑」を計画する事になるような建築のあり方、 緑化を機能の一つとする建築の提言であって、 その「緑」が地上にあるか、 建築物の上にあるかを問題としているわけではない。 仮に地上で「緑」を作り出せないのなら、 建築を基盤としてでも「緑で覆うべきである」という提言なのである。

 重要な事は植物がつくりだすクールスポットで建築(及び都市)を包み込む事である。 そうした理解の違いにより、 熱環境の問題にせよ、 水の問題、 植物の問題にせよ、 ズレがありかみ合っていない事は残念である。 ただし、 氏の「二兎を追わず」マクロの問題に取り組むべきであるという意見には賛成しかねる。 「選択と集中」という事があらゆる分野における我々の今日的課題であるとしても、 我々は「百年河清を待つ」わけには行かない。 今やるべきミクロレベルの課題は当然あると考えている。 「木陰は涼しい」という経験則を無駄にすべきではない。

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