昔話で恐縮だが、 建築学科の学生だった頃、 アアルトの作品が好きだった。 北欧の透明な景色を背景に、 白を基調として端正なたたずまいをみせる住宅建築や、 曲線を自在に使ったインテリア意匠が気に入っていた。 さらに、 うろ覚えなのだが、 アアルトが「何ミリのモジュールで設計しているのか」と尋ねられた際に、 「1ミリ」と答えたという記事を、 何かの本で読んだような気がする。 コルビジェ大好きの某先生に、 モジュロールやモジュールのことをさんざん聞かされていたので、 モジュールにとらわれずに自由に見えながら、 美しい空間をつくるアアルトがよけい好きになった。
そんな彼の作品をこの目と身体でじかに体験できるというのが、 この旅のひとつの楽しみだった。 自邸もオタニエミ工科大学も、 そしてフィンランディアホールも、 素人の僕には写真や図面ではわからない美しさと居心地のよさが、 そこにはあった。
ところが、 である。
フィンランディアホールの外壁がボコボコしている。 外壁をおおう大理石が、 目地のところから浮き上がり、 剥離しているのだ。
アアルトはいうまでもなく近代建築の大御所である。 モダニズム建築というと、 鉄とガラスとコンクリートというユニバーサルな素材を使い、 合理的な構造のもとに余分な装飾を排した美を追求した建築である。 アアルトはその路線に乗ったうえで、 彼流の北欧らしさを追及してきたのだと思う。 その彼も、 素材選びでは失敗したのだろうか?
(前略)次に地域性に反映されやすいのが、 素材である。 屋根瓦、 煉瓦、 土壁、 石材など、 その地域特産の材料が、 独特の建築景観を育んできた。 輸送手段が限られていた時代、 建築材料は地場産のものを使うのが一般的であった。 おそらくそれが、 安価であるとともに、 気候風土にももっとも適したものであったに違いない。
気候風土に合った適切な素材が、 そのまま地域性を表現する。 建築材料が地域内で入手できる自然素材に限られた時代には、 無意識のうちに地域固有のデザインが成立していた。 それが周囲の自然景観とも、 自然に調和するものであり、 ヴァナキュラーな建築のありようだった。
ただ例外的に、 モニュメンタルな建築の場合は、 意識的に地場では産出されない高価な素材が使われることもあった。 材料の希少性が、 建築の記念物的性格を強調したのである。
他地域産の材料や人工素材が容易かつ安価に使用できる現代、 何が地域固有の素材なのかを判断することは難しい。 木材などの植物性素材や石材など、 従来は地場の特産であったものが、 周辺の開発や産業構造の転換などによって、 地場での入手調達が困難になった場合は、 はたして伝統的素材が地域性を本当に表現しているといえるのかという疑問もわく。
他地域産の材料や人工素材を自由に使用できることは、 建築デザインの可能性を広げることにつながった。 しかし、 他の地域産の材料や工法を安易に使うことが、 建築の耐久性や性能を損なうことがある。 著名な建築家の作品でも同様である。 たとえば、 フィンランドの建築家アルバ・アアルトの代表作として有名なフィンランディア・ホール。 その外壁にはイタリア産の白い大理石が貼り付けられているが、 これが近年劣化し剥離し始めたため、 改修工事が進められている。 目地から進入した水が凍って、 剥離をすすめたのだと思う。 北欧の気候風土が南欧の素材を拒否したということだろうか。
近代建築では、 煉瓦や石は「積む」ものではなく「貼る」ものになった。 素材や技術も、 意匠と同じように、 パーツ化し、 操作選択が可能なのである。 このことは、 建築の機能と表層との分離に拍車をかけることにつながった。 内部の機能に限らず、 表層のデザインが自由に決定されるとなると、 地域文化の表現方法も変わる。 モダニズムの巨匠は、 様々な建築材料をも、 操作可能、 選択自由なものとして、 他地域の石材を各所に貼り付けた。 フィンランディアホールのスレンダーな柱にも、 ペタペタと大理石が貼り付けてあった。
フィンランディアホールの大理石
武庫川女子大学 角野幸博
ということで、 地域文化と建築材料について書きかけの文章の一部を以下に紹介させていただくことで、 僕のレポートとしたい。
この写真(左)は、 現場で採集した、 剥離した外壁のカケラである。 触ってみると表面がざらざらし、 ぽろぽろと細かい粉がおちる。 酸性雨にやられたのかもしれない。 なお、 右の写真は、 アアルト自邸の、 劣化したコンクリートのカケラである。
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