日本景色史・序
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6 日本人はどんな景色を育ててきたのか

 

 いまのところ十ぐらいあるのではないかと考えておりますので、 それを紹介してゆきたいと思います。 なおここで「気色」、 「けしき」、 「景色」と使い分けていますが、 昔は「気色」を使っていて、 やがて「けしき」、 「景色」となり、 近代に入ってから「風景」や「景観」が出てきたということなので、 一応区別をつけてみたもので、 仮のものです。

 (1)草木ものいふ気色
 (2)神々と祭礼の気色
 (3)国見のけしき
 (4)四季と年中行事のけしき
 (5)歌枕と名所のけしき
 (6)洛中の景色
 (7)文明開化・近代化の気色
 (8)国立公園の風景
 (9)生活環境の景観
 (10)持続可能な景色


(1)草木ものいふ気色

 これはアニマティックな気色です。 アニミズムは自然の中に神を見るのですが、 アニミマティズムは自然のなかに霊的な存在を見ますが、 神を見ているのではありません。

 日本書紀には「草木ことごとく能(よ)く言語(ものいふ)ことあり」とか「巖根(いわね=岩の固まり)、 木の株(もと)、 草の葉も、 なほ能(よ)く言語(ものいふ)」という記述があります。

 

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青蓮院の楠
 
 我われも自然のなかに一人で取り残されたような時には感じるのではないでしょうか。 たとえば京都の青蓮院には大きな楠がありますが、 その下にゆきますと、 昼でも物の怪のようなものを感じることがあります。 うす暗くなったり風が吹いてきますと、 かなりドキッとします。 瀬や淵もそういった物の怪の気色であった。

 関連して井上ひさしが山形県に住んでいた自分の若い頃を思い出して書いた、 宮沢賢治と擬声語についての文章があります。

 「わたしたちは日課のように裏山に出かけて行き、 枝を渡る風の音や、 草のそよぐ音や、 滝の音を頭のどこかで聞きながら遊んでいた。

 しかし、 それまでわたしたちは、 風が「どう」という音で吹き、 草が風にそよぐときは「ざわざわ」で、 くりの実は「ぱらぱら」と落ち、 きのこが「どつてこどつてこ」と生え並び、 どんぐりのびっしりとなっているさまを音にすれば、 それは塩がはぜるときの「パチパチ」と共通だ、 とは知らなかった」(井上ひさし『忘れられない本』「どんぐりと山猫」)。

 このように宮沢賢治は擬声語を使って子供が自然をどのように見ているかを描いています。 私はこれは宮沢賢治が「草木ものいふ気色」を擬声語で表現したものではないかと思います。 たとえば「風の又三郎」は「どっどど どどうど どどう」と物語が始まるのですが、 「草木ものいふ気色」をよく捉えていると思います。

 皆さんもこういう視点で宮沢賢治の童話を読み直してみてはいかがでしょうか。


(2)神々と祭礼の気色

 ここでは神様が特定されてきます。 八百万(やおよろず)の神、 太陽とか月とか雷、 雲、 風、 海、 山、 川、 草木、 森羅万象に神がいるという見方が生まれます。 太陽や月の神の名前がつけられ、 その神々を迎え、 もてなす、 祭りの気色が生まれます。

 たとえば那智の滝をご存知でしょうが、 滝そのものが神として祭られています。 春日宮曼荼羅では三笠の山が神の山とみられ、 麓には神社がつくられている様子が描かれています。 そして神を迎えて送り返すという祭りが行なわれていました。

 枕草子には「心ちよげなるもの、 御霊会の振幡(ふりはた)とか持たる者」という一節がありますが、 年中行事絵巻の祇園御霊会にちょうどそういった情景が描かれています。 清少納言は京の通り沿いの桟敷で見物しながら、 祭り行列の先頭を行く振幡を持った男性を「心ちよげなるもの」と表現しているのです。 祇園のお祭りはもうこの頃から気色になっていたことがわかります。

 こういった風景は祇園祭りの山鉾巡航といった形で現在まで続いています。 私が京都に来て驚いたのは、 地蔵盆が盛んに行われていることです。 町内にあるお地蔵さんを祭る行事が町のいたるところである。 それだけでもよそから来た私のような人間には、 驚きを禁じ得ないのですが、 さらに驚くのは地蔵さんに常に新鮮な花が供えられていることです。 こういう形でまだ八百万の神が生きているのです。


(3)国見のけしき

 三番目として国見のけしきがあります。 日本の古い叙景歌はほとんどが国見の時にうたわれた歌です。

 「大和には 郡山あれど とりよろふ 天の香久山 登り立ち 国見をすれば
  国原は煙立ち立つ 海原は鴎立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島 大和の国は」(舒明天皇、 在位629〜641年)

 これは小高い山の上から自分たちの住んでいる国を誉め称えた歌です。 600年代にはしっかりとけしきとして対象を捉えて歌われていることが、 この歌で分かります。

 「やまとは くにのまほろば たたなづく青垣 山隠れる 大和しうるわし」という歌も、 土地のけしきを褒めたたえたものですが、 こういった歌が叙景歌の発生に繋がったのだろうと言われています。

 「方今平城の地 四禽図に叶い 三山鎮を作し 亀筮並びに従う 宜しく都邑を建つべし」といったように、 風水の理想的な地形をしていると平城京のけしきも歌われています。 久邇京に大伴家持が「今造る久邇の都は 山川の清(さや)けき見れば うべ知らすべし」と歌っています。 こんな清いところに都をつくるのは、 まことにもっともなことだという歌です。

 平安京については「葛野の大宮は山川も麗しく 此の国 山川襟帯 自然に城を作す この形勝によりて……山背国を改め 山城国となすべし」というよく知られた詔があります。

 その京都には国見をするところが幾つかあります。 人気があるのは清水寺ですが、 訪れた人がここから京都の町を眺めるという形で国見が今でも残っています。

 国見は何かと言うことですが、 天地の自然と一体となった都、 住処と、 そこでの生活を寿(ことほ)いでいるのではないかと思います。 「寿ぐ」という言葉は文学者の古橋信孝さんがよく使っているのですが、 なるほどと思って私も使っています。

 日本人の京(みやこ)観、 住処観と西欧人の都市観はだいぶ違うのではないかと思えてきます。 バートン・パイクという人は『近代文学と都市』のなかで「西欧都市には、 誇りと罪、 という二律背反のイメージがずっとつきまとっている」と書いています。 彼はこれは近代文学だけではなく、 古代から綿々とあると言います。

 では罪悪感の根拠は何かですが、 バードン・パイクは「都市は自然からの分離を意味し、 神によって創造された自然の秩序に対する人間の意志の押し付けである」「都市の建設は、 神の定めた秩序に対する干渉行為である」「だから、 都市を破壊するときは、 物理的破壊だけではなく、 儀式によって根こそぎにされた」と書いています。 都市に対する考え方が我われとだいぶ違います。

 バベルの塔も神の怒りに触れて、 言葉が通じなくなり、 共同行為が不可能になって建設を放棄せざるを得なくなることは有名です。 また西欧の都市が周辺の田園と城壁で区切られ、 はっきりしたコスモスをつくっていることも確かです。

 これは日本人の都市観、 いや、 日本人の都市観は都市観ではなく天地の自然一体となった京を寿ぐわけで、 西欧のように都市と自然は分離したものだという発想とはどうも違うと思います。 それが日本の都市の姿や郊外の姿の西欧との本質的な違いであり、 それぞれ問題点を抱えていると思います。


(4)四季と年中行事のけしき

 四番目は四季と年中行事のけしきです。 国見の段階とこの段階で叙景歌が生まれてきました。

 良寛の「形見とて 何か残さむ 春は花 山時鳥 秋はもみぢ葉」ですが、 これほどの価値を四季のけしきに見出す民族は希ではないかと思います。

 では四季の歌が成立したのはいつ頃かについてですが、 持統天皇(690-697)の「春過ぎて 夏来たるらし 白栲(しろたえ)の 衣ほしたり 天の香久山」ではないかと思います。 四季の歌について古代文学者の古橋信孝は『古代都市の文芸生活』で、 「四季の歌は宇宙の運行が秩序だって行われていることを寿ぐ歌であった」と書いています。 ということはただ単にけしきが美しいというだけではないのです。 我われにもそういうところがあって、 たとえば暖冬が続いていると不安になってしまいます。 ですから天皇がこの歌をうたうということは、 自然のリズムが秩序だって動いていることを誉める、 寿ぐということなのです。 そういう意味で四季の景物は未だに日本人にとって大きな意味をもつものとして引き継がれているのです。

 源氏物語絵巻をみますと、 屋敷のなかに桜を植えて愛でています。 16世紀になると庶民も山の中の桜を楽しんでいました。 私も秋の紅葉の時に詩仙堂にゆきましたが、 すごい人でした。 桜と紅葉は日本人の心を今も動かすものだと思います。

 京都に来て驚いたのですが、 「梅雨空に沙羅の花しっとり」とか「キキョウ 梅雨空に映え」といったように、 沙羅やキキョウといったかなりマイナーなものが「今、 見頃ですよ」と新聞に紹介されるのです。 「白から紅色へ 1300本ほんのり スイフヨウみごろ」もそうですが、 本当に季節感が洗練された都市です。

 年中行事も「川床の日影たゆとう 涼景色」「嵐山幽玄」などと、 さまざまな行事が新聞で紹介されます。 本当に大変な都市です。 ほかの都市では新聞には桜や紅葉それに夏祭りぐらいしか出ないですから。

 このように宇宙の運行が秩序だって行われていることを寿いだり、 四季の景物・季節の花にアニマティックな生気を感じて寿ぎ、 季節の変化に鋭敏で風流な感性を日本人は育んできたのではないかと思います。

 景観計画ではこういうけしきについての話がほとんど出てこないのですが、 こういうことをきちんと位置づけた形でやらないと庶民の感性と離れた景観計画になってしまうのではないでしょうか。 今、 国土交通省でいろいろと考えているようですが、 物的環境をつくることばっかりしか考えていないようです。


(5)歌枕と名所のけしき

 さきほどの四季のけしきは、 時間の流れのなかでけしきを見出していくのですが、 歌枕と名所のけしきは、 日本の国土や自分たちが住んでいる地域という空間や場所に優れたけしきを見出していくものです。

 歌によまれた名所を訪ねて、 歌によまれたけしきを懐かしみ、 古人をしのび、 感動を新たにして、 創作するというのが日本文学の伝統です。 これは西欧のいうオリジナリティとだいぶ違う感覚です。 オリジナリティとは違う広がりを持つ、 大衆性を持つものだと思います。 最初はオリジナルではあるのですが、 それが次々と裾野を広げてゆくのです。 それが日本の生活文化をとても豊かにしています。

 歌枕の名所のけしきは、 先ほどの四季のけしきとともに、 日本の重要なけしきではないかと思います。

 よく詠われた歌枕は、 住吉の浜、 吉野川、 難波江、 逢坂山、 立田川、 春日山など、 京が関西にありましたので関西が多いです。 こういう場所は、 いろんな人が歌を詠んでいて、 そうすると皆がそこに行って、 詠まれた歌を懐かしみ、 またその人たちもそこで歌を詠む訳です。

 前に歌枕を分類したことがあるのですが、 山(22%)、 河(10%)、 浦(9%)、 野(8%)といったところが多く、 里や橋は2%でした。 また平安時代の末期には歌枕を勉強する歌学書がつくられていました。 住吉の浜を調べると、 そこで詠まれた歌が並んでいる訳です。 そして住吉の浜で歌を詠むときは、 それまで詠まれている歌に出てくる代表的な景物を落とさないようにして詠む訳です。 それがその場所の風景のイメージを伝えていくということになるわけですが、 そういった手引書が1100年ごろには出来ていました。

 こういう形で景色を誉め称えてきた民族は、 かなり特異なのではないかと思います。

 また、 歌枕がやまと絵に描かれ、 やまと絵を見ながら実際にはその場所にいかないで歌を詠むということも行なわれていました。 現在残っている神護寺の山水屏風はやまと絵の風情を残したものと言われますが、 平安時代のやまと絵は一枚も残っていません。 その後、 障子絵や屏風絵が数多く描かれますが、 その画題は季節の景物、 年中行事、 そして名所などであり、 同じようにそれを見ながら歌が詠まれました。

 江戸でも多くの名所がつくられました。 幕末の四季の名所は、 300箇所以上になります。 300年の間に、 300箇所以上も名所をつくったのです。 そして広重などが、 それを描いています。


(6)洛中の景色

 16世紀の初頭から京都の景色、 国見絵が描かれるようになりました。 洛中洛外図です。 そこでは京都の四季と年中行事(四季の景色)、 京都の名所(名所の景色)に加え、 京都の町並みと、 そこでの人々の生き生きとした生活(町の景色)が描かれています。

 洛中洛外図の中でも舟木本がもっとも生き生きとした都市像を描いています。

 おそらく都市の景観というか、 町の景色はこのとき初めて描かれたのではないかと思います。 絵巻物にも確かに人物を描いたものはあるのですが、 町らしい町を背景として人物が出てくるのはこの洛中洛外図が最初です。 都市の景色はこのときに発見された、 あるいは誕生したと言っても良いでしょう。

 郊外の名所、 季節の名所とともに、 いきいきとした通りと建物の縁先(店先)が描かれています。

 郊外の自然の風景を写した庭が町家のなかにある。 そういうものと同時にまちの賑わいがある。 洛中洛外図は郊外の部分と都市の部分が両方描かれており、 都市の部分をみても中に木が描かれているのが良く分かります。 自然と分離する形で都市があるという西欧流の都市ではない面白さがあります。 こういう考え方が現在、 都市のスプロールという問題を生んでいることは確かです。 日本人は自然と都市が一対にならないと人の住処とは思わないようです。


(7)文明開化・近代化の気色

 明治に入ってから文明開化、 近代化が起こるのですが、 ここで「気色」と書いたのは文明開化と近代化の象徴を物神化したというところがあると思ったからです。 日本人はなんでも新しいものを神様にしてしまうというところがありますが、 この場合もそうでした。

 洋館や鉄道などが、 文明開化の象徴という形で登場してきます。

 高輪の帰帆という錦絵をみますと橋の上に人びとが鈴なりになって汽車を見ていますが、 この橋の上から汽車に憧れている人びとが我われではないかと思います。 新しい物神化の対象が生まれてきたということです。

 「ザンギリ頭をたたいてみれば文明開化の音がする チョンマゲ頭をたたいてみれば因循姑息の音がする」という歌がありますが、 そういう形で文明を受け入れていったのです。 日本人は新しいものを受け入れるのがうまいというか、 受け入れすぎてしまうところがありますが、 それは神様と見てしまうからではないかと思います。

 銀座煉瓦街ではロンドンのリージェント街を模倣したような通りが出てきて、 それをパースペクティブで描いた錦絵も登場します。

 西洋の景観と日本の気色を比較して解釈していくのは難しいことですが、 一つの分かりやすい例としては西欧の景観には透視画の発明が深く関わっているということがあると思います。 こういう見方は日本人にはありませんでした。 ベルク氏がよく日本人の風景観は多感覚的だと言いますが、 透視画のように秩序付けて風景を見るということはなかったと思います。

 ただ明治以降、 透視図的な見方が入ってきて、 たとえば透視画にしたときに映えるような形にデザインすることが文明開化で近代化だと考えられるようになっていきます。


(8)国立公園の風景

 西欧では18世紀にアルプスの山々の風景が発見されたと言われています。 それには地質学や植物学などの発達、 崇高美の発見などが背景にあると言われています。 ですから自然科学の興味が山に向き、 崇高な美しさに彼らが目覚め、 それが一体となってアルプスの美しさが発見されて、 山が「自然の聖堂、 自然の祭壇」になったのです。

 これが日本にも入ってきて日本アルプスが発見され、 国立公園の保護が行なわれるようになりました。 そして明治以降、 日本の風景論は探勝的風景の理科的風景論となっていきました。

 代表的な著作は志賀重昂の『日本風景論』(1894)です。 彼は日本的な風景を取り上げ、 国民のいままで見てきた景色感につなげようとしているのですが、 むしろ探勝的な自然の風景に興味をもっていたのではないかと思います。

 彼は日本の風景の条件として、 (1)気候海流の多変多様なる事、 (2)水蒸気の多量なる事、 (3)火山岩の多々なる事、 (4)流水の浸食激烈なる事をあげ、 こういった理科的な理由があるから日本の風景は美しいのだと言っています。

 

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吾妻山の噴煙
 
 だから『日本風景論』の挿絵もこれまでの日本人の景色観からは異質な、 国立公園的な風景が描かれています。

 風景という言葉もそれまで漢文的文章に登場するくらいだったのですが、 『日本風景論』がベストセラーになり、 国立公園的な風景とともに国民のなかに定着していきます。


(9)生活環境の景観

 1970年代から80年代に、 公害問題が根底にあったと思いますが、 身近な生活環境へと我われの関心が向い、 自然保護とか歴史的な環境の保全、 緑化の推進、 あるいは親しめる水辺の再生など、 アメニティや景観への関心が高まりました。

 このときに、 景色、 風景という言葉が景観という言葉で表現されるようになります。 景色や風景がどちらかというと自然のそれであるのにたいして、 翻訳語としてアカデミックな狭い世界で使われていた景観という言葉が、 だんだん使われるようになります。

 街路景観、 住宅地景観、 商業地景観など多様で身近な景観への物的整備に関心が向いていった時代でした。 日本が経済的に豊かになり社会資本の整備が急速にすすめられ、 それまで受け身で鑑賞的な形であった景色への関りが、 能動的な景観観に変わりました。 それまでも誉め称えるといった意味での能動的な関りはあったのですが、 ここではものをつくる物的な整備という意味で能動的なものになりました。 このとき従来の景色、 風景ではなくて翻訳語である景観が使われるようになりました。

 対象とする環境が街路や住宅地や商業地など人の住んでいるところとなりますと、 街路景色とか住宅地風景ではピンとこない、 商業地風景では違う意味になってしまうということで、 景観という翻訳語のほうが意味がないといいますか、 何を意味しているか分からないけれども、 景色とか風景に関わることを言っていることは分かるということで、 よく使われるようになってきたのではないかと思います。

 それは日常的な我われの生活環境の景色が対象となり、 物的環境整備の時代に入ったことの現れではなかったかと思います。

 このときにいろいろな成果が上がりました。 古都保存法で保護された山辺、 妻籠宿など歴史的な街なみの保存などです。

 

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近江八幡
 
 倉敷でも古い堀を再生しましたし、 近江八幡でも古い町並みが再評価され、 横浜では歩行系に着目した整備が行なわれ、 アーバンデザインが日本にも紹介されました。 プロムナードやサインの整備もこの時代です。 今まであった都市をクリアランスして超高層を建てて、 その足元には緑地がたっぷりとあるというオフィス街がつくられ、 水辺に親しめる護岸も作られました。

 この時、 いろいろな条例がつくられています。 国法は、 古都法(66)、 公害対策基本法(67)、 伝建地区(75)しかなく、 あとは金沢や京都、 横浜、 仙台、 神戸などの条例です。 景観についてはいろいろな試みがなされてきたのですが、 国法がなかったことが大きな特徴です。

 この時代には、 私は『景観の構造』という本を出しましたが、 芦原義信『外部空間の構成』、 伊藤ていじ『日本の都市空間』、 島村昇ほか『京の町家』、 上田篤『町家・共同研究』、 芦原義信『街並みの美学』、 中村良夫『風景学入門』などが出ており、 中村先生こそ使っておられますが、 どちらかというと風景とか景色は表から消えた時代だったと思います。


(10)持続可能な景色

 1990年代以降に持続可能な開発ということが言われるようになりました。 これは現代の世代のニーズだけではなく、 将来の世代のニーズを損なわないような開発を目指すものです。 これは興味深い考え方です。 我われはついつい今の世代に好ましい開発に終始してしまいがちですが、 多様な資源、 多様な可能性を将来に残すような開発をしていかなければいけないということです。

 この考え方は景色についても言えるのではないかと私は思います。 景色というのは物的な環境と、 さまざまな見方が対になったものですが、 その景色を将来に残すような開発をこれからやって行かなければならないと思います。 そのためにも今まで日本人がこれまでどういう景色を育ててきたのか、 あるいは見出してきたいのか振り返って、 それを壊さないような開発を考えなければなりません。 新しい我われの景色をつくっていくことも重要ですが、 それは今まであったものを壊さず、 今まであったものをさらに光り輝かすような景色でなければならない」そういう時代が来ているのではないかと思います。

 

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一の坂川
 
 山口の一の坂川ではホタルの住めるような護岸が早い時期につくられています。 親水ということで、 人が親しめるような水辺の整備をたくさんやっていたときに、 このような整備をしたということは注目すべきことだと思います。

 

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白川(京都)
 
 多様な生物と一体化した環境という意味では、 京都の白川も優れています。 この白川のような、 人間もふくめて、 多くの生物にとって、 また景色としても良いという環境を我われは目指していくべきだと思います。

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