熊野古道で探る歴史と向き合う街とは、癒しの風景とは
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和歌山県田辺市とは

 

 関西では歴史街道という事業が国土交通省や府県、 市町村、 民間団体が主体となって進められています。 田辺市も上富田町とともにモデル地区に選ばれ、 そこで何を考えていくべきかについての報告書を作成しました(田辺市・上富田町(1998)『歴史街道計画整備プラン−蟻の熊野詣と熊楠のまち−』)。

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田辺市付近の地図
 
 田辺市付近の地図です。 紀伊半島の西側部分には大きく入り組んだ湾が沢山ありますが、 田辺湾はその中で最大です。 湾の中には多くの島があり、 夕日もきれいです。 田辺市の市街地は田辺湾の北側部分に形成されています。 市街地部には様々な地域資源が見られます。 歴史的にも様々な要素があり、 その積み重ねの上に現在のまちができています。

 田辺の歴史には、 平安時代中頃から行なわれるようになった熊野詣が深く関係しています。 熊野詣の街道は京都から始まり大阪を経由して熊野へと続いています。 田辺を拠点として内陸に向かう道と海側に向かう道に分かれており、 田辺は熊野詣の物資の供給拠点となっていました。 また、 海に開けており、 昔から文化経済活動が活発に行なわれた場所でもあります。

 江戸時代には、 会津川の河口付近に田辺城がつくられました。 田辺城は海に面しており、 水門があって、 城の中から海に出て行ける構造をもっていました。

 

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安藤時代の城下町(出典:田辺市『商工業・観光の概要2002』2002年)
 
 城下町時代の田辺市街地の図です。 城の近くに武家屋敷が、 その外側に町人町が形成されていました。 現在は、 町人町のさらに外側に田辺駅ができています。 したがって、 現在のまちの中心は江戸時代のまちの外れに形成されていることになります。

 

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市街地拡大(出典:田辺刊行会『田辺―ふるさと再見』1980年)
 
 田辺市の市街化履歴図です。 1911年当時の市街地は図の中心の網目部分です。 南東方向へ市街化が広がっていることが分かります。

 

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郊外住宅地開発(出典:田辺市教育委員会『わたしたちの田辺』1968年)
 
 主な郊外住宅地開発を示した図です。 市街地部分を囲むように14の開発があります。 バイパスが外側を通り、 当初の市街地からはかなり郊外に広がった形で市街地が形成されてきています。 最近ではさらに南の方へ住宅地開発が広がってきています。

 

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大規模小売店の位置(出典:田辺市『商工業・観光の概要2002』2002年)
 
 商店街と郊外の大型小売店舗の位置を示した図です。 旧市街地部に商店街が形成されていましたが、 郊外に大規模小売店舗が立地してきているため、 商店街の商業活動は低迷しています。 これは多くの地方都市で見られる状況だと思います。

 

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 1995年から2002年までの田辺市の人口変化を中心市街地と郊外に分けて示しています。 1995年を100とした場合、 2002年の中心市街地人口は68となっており、 3割ほど減少しています。 一方、 2002年の郊外人口は109となっており、 1割ほど増加しています。 このように人口が中心市街地から郊外へ流出している状況にあります。 全体の人口は多少減少していますが、 現在も7万1000人くらいの都市です。

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