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春日町には黒井城というお城があるのですが、 そこから眺めた風景です。 眼下に広がるのは春日町の船城郷ですが、 もともとは湿地でほとんど生産性のない泥田でした。 ただその泥の湿地帯が戦国時代の堀として都合がよかったので、 明智光秀が黒井城攻めに苦労した記録があります。 戦後に圃場整備されて田んぼになったのですが、 人が住む集落家屋は全て山裾に作られました。
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春日盆地の北側の集落は必ず谷筋にあります。 小さな谷筋をうまく利用した形で、 それぞれの集落が分布しています。
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集落の裏手にある山側から家々を見てみました。 ちょうど低い山に囲まれた盆地のような所になっていて、 集落家屋は山に抱かれています。
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山手集落にはこういうため池があります。 泥が多い地勢で常に水不足で悩まされた地域ですから、 生活用水を自前で確保する必要があったのです。 面白いのは農地用と集落用の2系統のため池が作られていることです。
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谷筋に作られた集落なので、 鎮守は水源地となる谷筋奥の取水口に配されています。 現在鎮守の横に砂防ダムが多いのはこのためですが、 水源となる取水口に自分たちの神様を祀りました。 面白いのは取水口にある鎮守の下にため池が必ず分布していること。 鎮守−ため池−集落、 そしてその横に農地用のため池という構成になっているのです。
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春日町という町名の由来は、 明智光秀の懐刀といわれた斉藤利三を黒井城に配し、 その時生誕した子が後の春日局であったことから来ているのですが、 その黒井城の菩提寺の興禅寺です。 立派なお寺で、 その回りにはこのような堀を巡らせています。 黒井城下も盆地の北側にあり、 この堀はおそらくため池と同じ役割を果たしていたのじゃないかと私は考えています。 というのも、 このお寺の上の谷筋には鎮守さんが祀られていて、 鎮守−ため池−黒井城下という空間構成になっているからです。 お城を守るための堀と言われていますが、 城下の生活用水にも使っていたと思われます。
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南北の通りを見たところです。 ここも妻入りよりも平入りの町家が多くなっていますが、 南北は坂道のため、 京町のような黒井の東西道との景観とは大きく異なります。
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船城郷の南側の集落は、 集落の北側に水田があり、 集落の南は山になっているので家への日当たりが悪くなります。 ですから、 南側の集落は谷筋ではなく全て尾根筋に集落家屋を構成し、 少しでも日当たりを確保しようとしています。
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どういうわけか、 水田の真ん中に島状の畑地のような土地があって、 畑なのか資材置き場なのか分からない使われ方をしています。 こういう土地が多いのも春日盆地の特徴です。
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昔は泥が多い湿地帯だったため、 近隣の人が船城郷の総社に行きたくても少し雨が降るとぬかってなかなか行けなかった。 そのために作られたのがこの遙拝所で、 ここから総社に向かって拝みました。 今は木々が鬱蒼と茂って神社は見えなくなってしまっていますが、 このような遙拝所が春日町内に4、 5カ所ありました。 伝統的な眺望視線、 ヴィスタ空間といえそうです。
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ここからは加古川流域になります。 加古川流域は「川沿い集落」と「山裾集落」に分けられます。 川沿い集落は、 上流側に尾根が張りだしているのが見えますが、 今は小・中学校が位置しています。 上流にある自然地形の尾根から下流の川沿いに向かって集落を配するというパターンで構成されています。
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これも氷上の川沿い集落で、 上流の北側の山を背に南側の川沿いに集落を形成しています。
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江戸時代船泊りのあった稲継の集落です。 加古川の船運に伴い江戸期に成立した集落で、 北側の上流に鎮守の森を置いて、 人工的な丘を作りました。 集落は下流側の南に構成されました。 丹波地方には船運に伴い形成された集落が本郷と2カ所あるのですが、 どちらもこういう作り方になっています。
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向こうに見える集落が加古川沿いの集落です。 これは神社の鳥居前から撮った写真ですが、 真ん中に見える道が多分参道だったんじゃないでしょうか。 手前と向こうの集落は同じ稲継という地名です。 おそらく母体集落が山手で、 何か危険なことがあればこの参道を避難道にしたのではないかと思われます。
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丹波では少ないのですが、 川沿いでは石積みの家屋となっています。 敷地基盤を少し高くした家の作り方が川沿いでは見られます。
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参道が一直線になって、 川沿い集落まで伸びています。
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ここの門は石積みで出来た階段を上がるようになっていて、 石積みの上には櫓が作られています。 そこには舟を設置していたという記録がありますので、 水害の際には山手の鎮守の方へ避難し設置していた船で応急対応していたのではないかと思われます。
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山裾集落は他の丹波地方と同じ構成で、 谷筋に沿って家々が建ち並んでいます。
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関西の塊村集落の特徴なんですが、 必ずムラの南の表入口にはサイノ神を置いて、 入ってくる悪霊を遮るようにしています。 民俗学で紹介されている勧請縄や大きな草鞋などと同等のサイノカミで、 丹波でも小字名に数箇所残っています。 ムラである集落南にサイノカミや小祠を祀り、 北側 に集落の共同墓地や禅寺、 六体地蔵尊があるのが丹波の山裾集落の共通パターンです。
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墓地の出入り口には今も六体地蔵尊が分布しています。 かつては青垣に多いように鎮守の位置しない集落の出入り口部に配されていたと思われます。 青垣町や氷上町では「独鈷の滝」の毘沙門天が加わり、 六体地蔵尊は7体となっています。 このように今も集落のムラとノラの境を結界として視覚化しています。
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黒井城下の入り口にもサイノカミ(塞の神)と書かれた小祠が残っています。
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山裾集落では等高線の地勢に沿って家を建てるのが基本で、 村中道も谷筋に沿って弧を描くようにうした家並みに沿って作られています。
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その構成が発展していくと、 集落の向かいに家が建ちます。 さらにその内側に街路を設け集落家屋を繰り返し構成するあるいは直線的なバイパスが整備され、 山裾集落とバイパス沿いの新しい工場や店舗付き住宅をつなげるという形で現在の加古川流域の山裾集落は構成されています。
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時間がありませんので、 残りの写真だけでもお見せします。
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篠山盆地では少ないのですが、 氷上郡では青垣、 氷上、 市島町に多く見られます。
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集落共同墓地から望む見た川沿い集落です。 共同墓地は集落を望む場所に位置している場合が多く、 貴重な視点場です。
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加古川流域の妙見堂です。 禅寺のない場合も加古川流域の集落の北側にはお堂を有している集落が多く見られます。
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高台に位置する禅寺からも山裾集落の全景を望む視点場を構成しています。
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