船場を読み解く
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船場の成立と展開

 

大阪城下の形成

 いろんな文献に書いてあるのでご存じの方も多いと思いますが、 平安京の町割は、 60間×60間(120×120m)でした。 これは、 そのままだと奥行きの一番深い所が60mくらいあるんですね。 もちろん表は色々な大きさの間口がありますけれども、 奥行き60mというのはかなり大変な長さです。 そのため京都では後に街区の中に長屋が沢山できるようになり、 また路地や辻子ができました。

 天正11年(1583年)に秀吉が大阪城下の造成に着手したわけですが、 まずは上町と大阪城から四天王寺方面にのびる平野町の街区が最初に出来ました。 この平野町は、 街区の表幅60間に奥行き20間の町屋が並び、 京都の街区の3分の2の大きさの町割がつくられています。 これは「商都としての使いやすさ」という考えが背景にあって出来上がったのではないかと推測されます。

 それから天正13年(1585年)に甥の秀次が近江八幡の町割をしました。 この近江八幡は南北70間・東西45間を基本にして街区が作られています。

 天正18年(1586年)、 秀吉は応仁・文明の乱で焦土と化した京都の復興を目指して、 いわゆる「天正の地割」を実行しました。 このときに元々あった平安京の町割を東西または南北に二分割した街区をつくったり(約120m×60m、 京間の60間×30間)、 あるいは4分割して(約60m四方)、 平安京からの町割を大改造しました。

 これによって奥行き30m程度、 16〜17間(京間の15間)の短い宅地割が可能となったわけです。


秀吉の船場計画

 慶長3年(1598年)、 秀吉は病に倒れ、 病床から大阪城下の拡大を命令しました。 こうして動き出した船場の町割が京間で方40間(40×40間)でした。

 おりしも慶長元年(1596年)に大地震が近畿地方を襲い、 京都や伏見も被害を受けましたが、 とりわけ堺は壊滅的であったと言われています。

 そういった状況の中、 秀吉は新しい港を持った商業都市の形成を目論んだのではないかと思われます。

 そのときに、 病床の秀吉がどこまで指示したかはわかりませんが、 病の床につきながらも、 京都のような整然とした碁盤目の町割を造るよう命令したと伝えられております。 しかしその規模は、 より合理的との判断から40間を採用しています。

 そういった経緯を考えても、 秀吉が京都に変わる新しい都を創ろうと構想したのではないかと考えられます。

 

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船場と京都の町割比較
 
 船場と京都の町割の違いをまとめてみましょう。

 京都の町割は京間の60間(約120m四方)くらいです。 それを秀吉が南北方向や東西方向に半分に割って、 道路を造ったり、 あるいは4分割した町割にしたわけです。 こんな実験を京都で既に行っていたわけです。 また、 堺では奥行きの浅い町割りだったようです。

 つまり、 秀吉が船場の計画を実行したのは、 京都や堺といった街が地震で大きな被害を受けたこともあって、 船場に近畿の新しい都を創ろうと考えたからではないでしょうか。 そしてその際に、 街区の大きさをもうちょっと縮めた方がいいと発想したのではないかと思うわけです。

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