船場を読み解く
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御堂筋の実現

 

 このようにして船場の地域ができあがってきたわけですが、 明治以降になると様々な船場改造の事業が行われました。

 その中でも最も大きいのは、 御堂筋の計画ではないでしょうか。 明治20年(1887年)に最初の計画が提案されましたが、 その後長い間、 大阪に政府のお金が回ってこないために事業ができませんでした。 そして、 およそ50年後の昭和12年(1937年)にやっと実現しています。

 そのときに市議会でも色々議論を呼んだそうです。 「大阪の真ん中に飛行場でもつくる気か」とか、 また街路樹を設置することについて「畑でもあるまいし」とか「街路樹で商店の看板が見えなくなる」といった議論、 また「交通上からこういった広い道1本に金を注ぐよりもせめて18間くらいに狭くして、 数を増やした方が良い」といった議論も出ています。 それから「市当局は、 功を急ぐためか、 都市計画に心酔されているように見受けられるが、 とりあえず事業を延期して他日を期してはどうか」などといった発言があったようです。

 ところが大正12年(1923年)に関東大震災が起こり、 これによって議会の反対意見を抑える事ができたと言われています。 ちなみに、 御堂筋事業のお金の大半は土地の購入費にかかったようです。

 なお山片蟠桃という両替商升屋の番頭だった人が、 文政3年(1820年)に、 延焼防止のために、 大阪の街を十文字に区切る空地を設けることを提案しています。 この十文字の縦の筋がちょうど御堂筋に当たるのです。 この蟠桃の大阪改造構想が、 御堂筋の一つのヒントになっていたのかもしれません。

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