船場を読み解く
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戦後の船場

 

戦災復興土地区画整理と船場

 それから船場におけるもう一つ大きい事業として、 戦後の戦災復興土地区画整理事業があります。

 昭和19年12月以降20年8月まで、 大阪の街は28回にもわたる空襲を繰り返し受け、 5千ha余、 市域の約27%を焼失し、 全半焼壊は約31万戸に達した、 と言われています。

 それで政府の戦災地復興計画基本方針に従って復興都市計画を策定しました。 復興都市計画街路計画(築港深江線ほか63路線)、 特別都市計画復興土地区画整理(約6107ha)、 公園計画(112カ所約824ha)といった事業が計画されました。

 

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戦災復興土地区画整理
 
 この広大な土地を区画整理しようという計画は、 実際には船場、 島之内といった地域〈図の右側〉では実施されず、 御堂筋の西側にあたる下船場や堀江〈図の左側〉だけで実施されました。

 

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船場今昔(上2004、下1888)
 
 このようなことを経て現在の船場の街がつくられたわけです。

 1888年と2004年の船場の地図を見比べますと、 現在は船場の真ん中に御堂筋が縦に通っており、 明治の初めあたりから街の形状は少しずつ変化してはいますが、 基本的には街区構成が変わらないまま今に至っているという事がわかります。

 ところで、 船場と島之内地域がなぜ区画整理から除外されたかといいますと、 戦災復興土地区画整理史などにも書いてありますが、 国および地方財政が窮乏したため、 政府が対象地域を縮小する方向で見直すことが閣議決定され、 (1)換地割込み等の都合で施行地区に編入した非戦災地区、 (2)区画整理をしても宅地価格の増進率が低く、 多額の減歩保証金を必要とする地区、 (3)仮換地をまだ指定していない地区であって、 緊急性が乏しく、 事業能力・事業効果を勘案して除外するのが妥当と考えられる地区、 の3項目に該当する地区が計画から除外されることとなり、 船場と島之内がこれに該当したというわけです。

 これはつまり、 船場や島之内は自力で復興できる力を持っていたということ、 また地価がもう既に上がっていますから区画整理してもそう上がらないということで、 対象地区から外されたのではないかと考えられます。


築港深江線と船場センタービル

 
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船場センタービル
 
 それからもう一つ、 この地域で行われた大きな事業として、 築港深江線と船場センタービルがあります。

 昭和30年代に入って大阪市の都心部では交通混雑が著しくなり、 その解決のために築港深江線全線を早く開通しなければいけないということで、 様々な検討が重ねられました。

 例えば、 小学校跡地を利用して代替ビルを建設し、 ここに立ち退き者を収容して地べたに広い道路を造るという「代替ビル建替案」、 計画幅員80mの一部を高架構造とし、 その下にビルを作って売却、 その代金を用地買収費用に当てるという「高架下ビル案」、 その他「トンネル案」「高層ビル案」「中層ビル案」「平面道路案」等、 色んなアイデアがございましたが、 結局は「高架下ビル案」が採用されました。

 最近出された大阪市の報告書によりますと「最近の道路法の改正によって道路と一般建築物とが一つの敷地の中に共存する道が開かれたので、 今後はこのような事例が増加することと思われるが、 20年も前にすでにこのような手法を生み出していたのは大阪の知恵である」といった事が書かれています。

 それで現存する長大な船場センタービルが出来上がったわけでありますが、 この「長大ビル」が今後どうなっていくかが、 船場にとってとても重要な問題であると思います。

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