町並み景観とまちづくりを京都で考える
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修景の四つの課題

 

景観問題は都市計画問題

山崎

 最初に私なりの景観問題に対する考え方をお話させていただきます。 その上で、 京都の景観保全制度の概要を私の批評も加えながらご紹介していこうと思います。

 まず修景にあたっての課題として「醜の除去」「デザイン的調和」「優れた景観の形成」「景観の社会的混乱の調整」の四つを挙げました。

 しかしその前に、 景観問題や景観デザインには色々な段階がありますが、 それが整理できていないのではと感じることを指摘しておきたいと思います。

 私は約30年前に京都産寧坂の町並み保存の調査と計画に関わって以来、 美観地区条例に対するアドバイスを含め、 様々な制度の策定に関わってきました。

 その中で有名建築家や大学の先生たちから色々な批判も受けてきました。 特に批判を受けたのは、 早い時期から「勾配屋根を付けましょう」と提唱してきましたが、 「勾配屋根を付けると、 傑作になりますか」ということでした。

 景観の調和やデザイン的調和を図ることと、 傑作をつくること、 優れた景観や建築物をつくることは別問題なのですが、 それを別だと思っている人が少なかったのです。

 私は日本の景観問題を社会的混乱と呼んでいます。 文化財保存を除き、 これまでデザインの問題で景観問題になったことは皆無に近いと思います。

 京都タワーや京都駅、 巨大マンションなどの問題は、 建物自体のデザインの問題ではなく、 「この場所に、 この大きさの、 この用途の建物が」ということが問題なのです。 つまり、 それは景観問題ではなく都市計画問題なのだと思います。 しかし、 一般市民はおかしいと感じた時、 都市計画制度を知らないため都市計画問題とは言わずに、 目に見えた環境として捉え景観問題と言うのです。

 これまでこのような都市計画問題に対し、 行政はデザイン的調和を目指した条例で応えようとしてきました。 それも大切なことではありますが、 問題の一部分でしかなく、 住民の言うような景観問題(都市計画問題)には応えられていないのだと思います。

 

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町家の継承を意識したビル 町家に隣接するビル(姉小路通烏丸東入)
 
 そのことは、 この写真にも表れています。 駐車場もあれば、 町家を意識して建て替えられた建物もあり、 周囲と全く関係なくマンションになっているところもあります。

 このような状況を調整しなければ景観問題は解決できないと思います。


醜について

 アメリカのシティビューティフル運動をきっかけに、 日本でも大正時代に都市美運動が起こりました。 しかし、 内容的には美の創造よりも醜の除去を目的とした運動となっていきました。 これは、 美しいものより醜いものの方が人に共通する感性があるためだと思います。

 私は現代建築が人々に愛されるようになるのは無理ではないかと思います。 それは、 現代建築は経年変化で美しくなったり、 古びさせて美しく感じさせることが無理だと考えるからです。

 材料としてのコンクリートが古くなって壊れてくると、 人々は土塀が古くなった時のように美しいとは思わず、 また絵に描こうとも思わないのです。 人間は地球の生態系に戻っていかない素材を醜いと感じるのだと思います。 新しいうちは分からないのですが、 古びてくるとそれが土に戻らないことが分かってきて醜いと感じるのだと思います。

 したがって現代建築は、 できるだけ新しい姿を保つしかないのです。 そのためには、 ガラスであれば雨で洗い流し、 他の素材であれば庇を出して汚さないようにする必要があるのだと思います。 また、 一定期間ごとにリノベーションして古びた姿を見せないようにするのも一つの方法だと思います。 そうでなければ、 現代建築は全て石や煉瓦などの自然素材で覆ってごまかすしかないと思います。

 一方、 ロマンチシズムの時代には、 ルーブル宮殿が廃墟になったらどんなに美しいかという絵が描かれていますし、 建築家ジョン・ソーン卿は、 ロンドンのイングランド銀行を設計した時に、 その建物が廃墟になったらどんなに美しいかを描いて発表しています。

 経年変化によって美しくなるものとそうでないものがあります。 そして、 それには人間が暮らしていくのに良い環境かどうかが関係しているのだと思います。 種の保存のようなもので、 人類は約50万年前から生きてきていると言われていますが、 その間に人間が学習してきたこと、 人間が住みやすい場所とはどのような場所かをDNAが伝えているのだと思います。 そして、 それは感性となって伝えられ、 美醜を感じるのです。


デザイン的調和について

調和とは?
 デザイン的調和は、 生活になぞらえて考えてもらえれば良いと思います。

 私が話している間、 黙って聞いてもらっていますが、 ここで突然トランペットを吹かれたり、 踊られたり、 裸になられたりされたら困ります。 しかし、 町並みについて見ると、 裸で踊られたら困るようなところで、 いかにも裸で踊っているような建物が建てられたり、 静かなところで、 いかにもトランペットを吹くような建物が建てられたりするわけです。

 このように、 人が集まって暮らす場合、 共通性や場所性を大事にする必要があるのです。

 しかし、 だからといって、 身動きをしてはならないとか、 服装はこのような服装で来なさいということを決められるのは嫌ですし、 疲れると思います。

 皆に好かれる町並みや環境は共通性と約束事の上にも個の主張、 自由度があるのだと思います。 このことは世界中の町並みに共通していると思います。

 つまり、 都市・まちのデザインの調和は「多様の統一」によってもたらされるのです。 高さや壁面線、 窓の大きさ、 屋根の姿など、 建築がもつ様々な諸属性によって変化の幅を大きくしたり小さくしたり変えながら、 その組み合わせでまちの個性や落ち着きなどの表情を出すことが重要なのだと思います。

景観の中の図と地
 学芸出版社から出版させていただいている『
都市のデザイン〜<きわだつ>から<おさまる>へ』の中でも書かせてもらっていますが、 デザイン的調和は景観の中の図と地という話とも関係があります。

 図と地の一つの考え方は、 図は寺院などの多くの人の目を惹くモニュメンタルな建物、 地は背景となる建築とする考え方です。 京都には図と地がまだ残っているため、 美しい景観であると言われているのです。 日本以外の国、 特にヨーロッパでは現在でもそのような構造を守っているところが多くあります。

 図と地については、 もう一つ大切な考え方があります。 人は図柄をものと背景に分けて見るという傾向があります。 ゲシュタルト心理学の「ルビンの杯」の図では同じ図柄でも図と地が反転して別の見え方をしていますが、 このようにまちの中の建物は全て地の一部になりうるが、 それだけを見ると図としても浮かびあがるという性質があります。 図として見ることにより、 そこに住んでいる人の住み方や人柄を感じられるのです。 つまり、 モニュメントではない一般の建物の場合は図にも地にもなりうるという性質が大切なのだと思います。


優れた景観の形成

制度で優れた景観はつくれない
 眺めやパノラマ景観を維持するという意味では、 優れた景観を制度でつくることはできると思います。 しかし、 建物のデザインについて「勾配屋根をつけるとそんなに優れた景観になるのか」と言われてきたように、 優れた景観を制度でつくるのは無理であって、 つくる人自身の技能とセンスに頼るしかないのだと思います。

 制度は、 町並みの調和を保つための最低限の基準でしかないのです。 「もっと創造的な意見を入れてください」ということを何十年も言われてきましたが、 行政や景観制度の担当者はそのような創造的で積極的な意見を言うべきではないと私は信じています。 アドバイスくらいは良いのですが、 制度として「どのように作れ」「このようなものが素晴らしい」ということ言ってしまうと、 デザインの強制になってしまいます。

フランスの景観デザイン
 フランスでは文化省直属の国家公務員であるフランス建造物監視建築家(architecte des batiments de France)が各県に1〜2人います。 パリには7人の建造物監視建築家がおり、 1人が2〜3区を担当しています。 数年前に、 そのうちの2人に会って話を聞きました。

 パリの歴史的街区の9割がアボール(Abords)という歴史的記念物(monuments historiques)周辺の景観規制地区となっています。 フランスでは歴史的記念物指定は行政が一方的に行ない、 指定された歴史的記念物の半径500mの範囲は景観規制地区になります。 景観規制地区では「どのような景観にしなさい」という規則はありませんが、 建造物監視建築家が許可した建物でないと新築・改築等ができない仕組みになっています。

 建造物監視建築家は建造物の許可にあたって、 明文化されたデザインの許可基準や自分で書いたメモなどは全く用意しておらず、 その時その時で考えて判断しているそうです。 そのため、 数年前と現在では違うことを言うこともあるし、 隣で良いと言っていてもこの家ではダメということもあるそうです。

 日本では基準が明文化されており、 どの家も同じ基準をもとにデザインされ、 去年と今年で言うことが違っていてはならない、 ということを話すと顔を見合わせて驚いていました。

 彼らの考えは、 人の考え方も世の中も変化していくのに、 なぜ前と同じことを言わなければならないのか、 また、 デザインが上手な人と下手な人がいるのは当然であるのに両方に同じことを言うのはおかしいのではないかというものでした。 彼らは下手な人には新しいデザインは認めないが上手な人には新しいデザインを認めているそうです。 それだけ強い権限を持っているのです。 また敷地の特性ごとに判断をかえるとも言っていました。

 しかし、 出てきた案に対し絶対に指導はしないそうです。 イエスかノーかのどちらかだけで、 ダメな場合はノー以外何も言わず、 デザインの押し付けは絶対にしないそうです。

 強い権限を持ちながらも、 デザインのファシズムにはしないという考え方は守っているところに感心しました。


景観の社会的混乱の調整〜地区計画の重要性

 先に述べたように現在の景観問題は景観の問題というよりも都市計画の問題です。 したがって景観問題に応えるためには、 まちづくりとしての景観づくりが必要であり、 そのためには町内会レベルでの地区計画が大切だと思います。

 地区計画が大切だということは以前から言われていますが、 財産権の問題等で現在はうまく進んでいないところが多い状況です。 しかし、 地区計画を進める他は、 現在言われているところの景観問題の解決はないと思います。

 「地区計画」のように、 都市計画の言葉は冷たい感じがしますが、 要するに、 誰がどこに住んでいて、 どこの建物はどのような感じで、 どのような事情でそのような格好になっているのかが分かる範囲、 町内会程度の範囲で、 将来どのようなまちにしていきたいのかを決めることが重要だということです。 人々の予想・予測を超えて思いがけない方向にまちが動いてしまった時に、 景観問題として騒がれるのです。 それは景観問題ではなく、 本当は都市計画問題なのです。

 突然隣に大きな中華料理店や葬儀屋がきたら問題になるのであれば、 建物用途まで決めておく必要があるのです。 そして、 家が建て替わり、 人が入れ替わるたびに、 町内が目標とする理想像に近づけるようにしていかなければならないのです。

 町内会レベルでの地区計画として、 建物規模、 空地、 緑の配置と量、 建物用途など、 また建蔽率や容積率に加え建物の上空未利用空間をどこにつくるかといったことも含め、 まちの将来像を決めていかなければ、 景観問題は今後もずっと続いていくと思います。

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