台湾の参加型まちづくりと震災復興について
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集集大地震後の協働型復興まちづくり

 

協働型復興まちづくりを始めた背景

 協働型復興まちづくりを始めた背景の一つに、阪神淡路大震災の影響があります。阪神淡路大震災後、台湾も地震多発地帯であるため、神戸に来て勉強させてもらいました。神戸の震災復興の過程で、住民がいかに参加するかということが問題になったということ、また、沢山の方々が応援して復興が進んだことを聞きました。そのため、集々大地震前から、台湾でも、もし大地震になったら住民が一緒に復興をやっていかなければならないということを感じていました。したがって、地震が発生した時、住民参加方式で、復興事業を進めようということが、我々の共通認識となっていました。

 もう一つの背景としては、1994年に始まった社区総体営造があります。地震が発生した時、社区総体営造を始めて5年目を迎えており、経験者も増えてきていました。その中で、当時、台湾の社区営造学会の理事長であった李遠哲氏(ノーベル賞受賞学者)が、政府に住民参加型の復興まちづくりの必要性を強くアドバイスしたことが大きく影響しています。そのことにより、政府の復興政策(重建工作綱領の要綱)に住民参加型で進めていくという内容も盛り込まれました。

 このような背景のもとに、参加型をほとんどしてこなかった伝統的な農村地域に、都市部での経験を有する専門家が、地震後すぐに入っていきました。大学の先生やNPOの幹部を含むこれらの専門家達が手分けして、1グループが1集落に入って、被害調査を進めました。と同時に、復興まちづくりの手伝いをも始めました。


協働型復興まちづくりが必要となった背景

 協働型復興まちづくりが必要となった背景は複雑です。

 その一つは、公共施設の再建などのハードウェアには政府の力が強いのですが、生活や産業など住民に直接関わるソフトウェアは住民自身の参加で行う必要があると感じたことです。

 また、もう一つの背景は、集集大地震は被災地が広範囲にわたり、それぞれの場所ごとに条件が異なっていることでした。例えば台湾にはいくつかの種族が住んでいます。約300年か200年前、中国大陸から移住してきて、福建語をつかう福建人と広東語に近い客語を話す客家人、また40〜50年前に、再び大陸から入ってきた外省人、さらに昔から住んでいた原住民などがいます。また、この原住民にも10以上の種族があります。このように、被災地の中には様々な社会慣習や種族文化が入り込んでいるため、それぞれの生活、文化にあわせた復興方策や手法を進めていく必要があり、単なる一つの基準で進めていくことは難しく、参加型のまちづくりが必要だと言えます。

 最後に、被災地の多くは山奥の僻地であるため、住民も自治体も力が弱く、財政も人も不足しており、地元の力だけでは復興が困難でした。したがいまして、まちづくり型で住民をエンパワーしながら復興事業を進めていく必要があります。


協働型復興まちづくり推進の概況

 農村地域でのまちづくり経験がなかったため、最初はいくつかの限られた社区での試みから始まりました。復興まちづくりの議題も建物の再建という限定的な議題しか考えられなかったし、地震前に都市地域で使われていた手法で復興事業を進めようとしていました。しかし、都市と農村とでは仕事の仕方や住民の教育レベル、年齢層なども違うため、地震前の手法をそのままの形で農村に導入することは適切ではありませんでした。

 また、地震が9月に発生したため、政府の年度予算の残りは少なかったため、最初の年の復興まちづくり補助の大部分は民間の寄付金で行われました。特に2つの企業から約1億円の寄付を受け、二十数地区の社区を選んで復興まちづくりに取り組みました。

 中後期になると、先期での部分的成果が出てきて、政府予算も組み込まれ、投入されたため、より全面的に、また策略的にやりはじめました。まず手法として、当初は計画補助だけでしたが、人材育成と計画補助を併行する方法へと変わってきました。次に、内容には産業の問題や高齢者の社会福祉の問題など、新しい議題が次々と出てきて、建物を再建するだけではなく、復興まちづくりが様々なことを複合的に進めていくようになりました。さらに、小さな集落が多く、個々の力が足りないため、提携化という手法をとるようにもなってきました。例えば産業振興が提携化されることにより、共同でHPをつくり、宣伝活動を行うところも出てきました。このように、震災復興にあたって、平常時とは異なった手法が少しずつ開発され、積み重ねられてきました。


協働型復興まちづくり推進の仕組

 より詳しく協働型復興まちづくり推進の仕組を説明します。前述したように、最初は民間がお金を出して、大学の先生やNPOがお手伝いしたい集落を選んで入り、協力しながら復興を進めていきました。しかし、各々が個別的に行うと思ったように進まなかったため、社区営造学会が全体のコーディネーターとしてサポートするようになりました。

 

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協働型復興まちづくり推進の仕組み
 
 中期以降、全面的に行われた時になると、社区営造中心と社区営造点、社区営造員のセットで進めました。具体的には、上の図に示したように一つの村を一つの社区営造点とし、いくつかの社区営造点を一つの社区営造中心がサポートします。社区営造中心には大学などからの経験者グループを審査委員が選考して入れました。社区営造点とした村内の住民全てが復興の仕事に参加するのですが、その中にリーダー的な人や幹事がいないとうまくいかないため、社区営造点の中に、その社区のまちづくりを専務する人材(社区営造員)を1人か2人選び配置して、彼や彼女らを計画的に育成しました。そして、彼や彼女達が各々の社区事務を支え、被災地域の復興まちづくりを進めていきました。

 

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被災地全体の仕組み
 
 被災地全体をまとめると、図のように4地域(区)に分けました。台中県・苗栗県が第一区、南投県北部が第二区、南投県南部が第三区、そして住み方や文化が異なる原住民部落を合わせて一つの特別な区(第四区)に分類しました。その4区の下にそれぞれ15の社区があり、各社区に社区営造員がいるというような仕組みで2〜3年程度進めてきました。

 上記の仕組みで進めていく中で、社区住民達自身が力をつけてきました。そして、彼らは自分達の考え方で新しい復興の試みを導入し始めました。また、社区同士の交流も盛んになってきました。専門家が専門的に考えるよりも、彼らの経験から、自分たちのニーズに合った方法や内容に変化していったのです。

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