協働型復興まちづくり推進の概況
農村地域でのまちづくり経験がなかったため、最初はいくつかの限られた社区での試みから始まりました。復興まちづくりの議題も建物の再建という限定的な議題しか考えられなかったし、地震前に都市地域で使われていた手法で復興事業を進めようとしていました。しかし、都市と農村とでは仕事の仕方や住民の教育レベル、年齢層なども違うため、地震前の手法をそのままの形で農村に導入することは適切ではありませんでした。
また、地震が9月に発生したため、政府の年度予算の残りは少なかったため、最初の年の復興まちづくり補助の大部分は民間の寄付金で行われました。特に2つの企業から約1億円の寄付を受け、二十数地区の社区を選んで復興まちづくりに取り組みました。
中後期になると、先期での部分的成果が出てきて、政府予算も組み込まれ、投入されたため、より全面的に、また策略的にやりはじめました。まず手法として、当初は計画補助だけでしたが、人材育成と計画補助を併行する方法へと変わってきました。次に、内容には産業の問題や高齢者の社会福祉の問題など、新しい議題が次々と出てきて、建物を再建するだけではなく、復興まちづくりが様々なことを複合的に進めていくようになりました。さらに、小さな集落が多く、個々の力が足りないため、提携化という手法をとるようにもなってきました。例えば産業振興が提携化されることにより、共同でHPをつくり、宣伝活動を行うところも出てきました。このように、震災復興にあたって、平常時とは異なった手法が少しずつ開発され、積み重ねられてきました。
協働型復興まちづくり推進の仕組
より詳しく協働型復興まちづくり推進の仕組を説明します。前述したように、最初は民間がお金を出して、大学の先生やNPOがお手伝いしたい集落を選んで入り、協力しながら復興を進めていきました。しかし、各々が個別的に行うと思ったように進まなかったため、社区営造学会が全体のコーディネーターとしてサポートするようになりました。
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協働型復興まちづくり推進の仕組み
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中期以降、全面的に行われた時になると、社区営造中心と社区営造点、社区営造員のセットで進めました。具体的には、上の図に示したように一つの村を一つの社区営造点とし、いくつかの社区営造点を一つの社区営造中心がサポートします。社区営造中心には大学などからの経験者グループを審査委員が選考して入れました。社区営造点とした村内の住民全てが復興の仕事に参加するのですが、その中にリーダー的な人や幹事がいないとうまくいかないため、社区営造点の中に、その社区のまちづくりを専務する人材(社区営造員)を1人か2人選び配置して、彼や彼女らを計画的に育成しました。そして、彼や彼女達が各々の社区事務を支え、被災地域の復興まちづくりを進めていきました。
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被災地全体の仕組み
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被災地全体をまとめると、図のように4地域(区)に分けました。台中県・苗栗県が第一区、南投県北部が第二区、南投県南部が第三区、そして住み方や文化が異なる原住民部落を合わせて一つの特別な区(第四区)に分類しました。その4区の下にそれぞれ15の社区があり、各社区に社区営造員がいるというような仕組みで2〜3年程度進めてきました。
上記の仕組みで進めていく中で、社区住民達自身が力をつけてきました。そして、彼らは自分達の考え方で新しい復興の試みを導入し始めました。また、社区同士の交流も盛んになってきました。専門家が専門的に考えるよりも、彼らの経験から、自分たちのニーズに合った方法や内容に変化していったのです。
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