埔里鎮桃米社区
もう一つの事例は、埔里鎮桃米社区です。ここではエコツーリズムをテーマに復興まちづくりを行っています。先日中林一樹先生が『BIO City』(No. 31)に記事を書かれていたので、ご参考いただければと思います。
桃米社区は被災地の中でも大きなまちである埔里の近くにあります。埔里は海抜約400mから800mの間に位置し、地形の激しい地域です。
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(提供:新故郷支部基金会)
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自然豊かな川も流れています。以前は、住民はこのような美しい自然環境や生態系を当たり前のことと思い、あまり重視していませんでした。筍や山芋、バナナなどの農作物を栽培して、比較的豊かでしたが、地震で大きな被害を受けました。全戸数360戸のうち、約2/3の家が全半壊し、農業も廃れ、人口も減ってきていました。
地震以前、社区の住民達は参加型まちづくりをほとんどしていませんでしたし、どのようなことかさえも分かりませんでした。このような場所で参加型復興まちづくりが始まった背景には、近くの埔里に住民参加の活動を進めている新故郷基金会の廖嘉展さんがいたことが大きく影響しています。地震の二週間後、村長が廖さんに電話を入れて、我々の村の復興も手伝って欲しいとお願いしたのです。当時、廖さんは埔里の内部だけでも大変でした。しかし、直接村長からの要請があったこともあり、桃米社区に入って行きました。それが地震後1ヶ月弱くらいです。
本当に復興していきたいならみんな一緒に進めていかなければならないということで、住民達と約2ヶ月の対話の末、村の重(再)建委員会を設置しました。
以前から被災地域の多い所は観光が盛んだったこともあり、廖さんは台北にある世界新聞大学観光学科の先生を呼んできて、観光事業による産業復興が可能かどうかを相談しました。しかし、観光にも様々な方法があり、どのようにやるかはなかなか決められませんでした。そこで、近くにある特有生物研究保育センターの副センター長である潘さんとそのスタッフを招き、桃米社区辺りの生態を調べてもらいました。調べてみると彼らはびっくりしました。多種のトンボやカエルが生息していたのです。カエルについては、台湾には29種類生息していると言われていますが、桃米社区には19種類(その後24種類まで増えた)を観察できました。そこで、このような生態系を生かして新しい産業にすればどうかということになりました。しかし、農民にとっては、まだ冗談にしか聞こえなかったようでした。
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(提供:新故郷支部基金会)
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初期、地元の人がカエルを見ているところです。なんでこんなものがというような顔をしています。
しかし、潘さんらの説得により、このような豊かな生態系を生かしてみようという方向に進み、何回かの熱心な説明をしていくうちに、住民も段々と本気になり、エコツーリズムを復興のビジョンに決めました。
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(提供:新故郷支部基金会)
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地震の翌年の2000年に強い台風がきて、村内に流れている一本の川のコンクリートの堤防が壊れました。その時、壊れた堤防沿いの地主さんが生態系の大事さに共感し、そこの土地を社区に提供し、壊れた堤防を原状修復しないで、敷地全体を生態系的に配慮した形で整備が進められました。
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(提供:新故郷支部基金会)
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このような動きに影響され、村の他の場所にあるもっと広い土地も大変安価で社区に長期間貸してくださいました。そしてコンクリートなしの豊かな生態系を持つ湿地に整備されました。
このようなことをやっていくうちに、色々なことが派生してきました。例えば、地震により、多くの住民は仕事がなくなってしまったが、彼らは昔に竹細工作りや建築などの技術を持っていたことから、社区の新しい動きに合わせて、「工班」(仕事の組合)を組織し、復興まちづくりの作業に参加することと同時に、自分も新しい仕事が創出できました。
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(提供:新故郷支部基金会)
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写真は仕事組合による地元の材料である竹を利用して作られた巨大なトンボです。
また、カエルやトンボだけではなく、全体的に考えていく必要があるのではないかということで植物園をつくり、地域の原生植物の苗を植え、将来村の緑化に使われると共に、外部にも販売でき、村の収入となると考えました。
このように、最初はトンボやカエルから始まりましたが、段々と全体的に拡大していくようになり、エコツーリズムの計画が始まりました。
エコツーリズムのために住民は色々と勉強しました。例えば来られるお客さんに解説できる人が必要であることから、その解説のための勉強コースを設けました。以前はカエルさえ分からない村人が勉強をし、生態解説員のライセンスを取得することができました。
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(提供:新故郷支部基金会)
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ライセンスをとるための勉強会です。母親や子供も熱心に参加しています。現在は十数名が解説員ライセンスを取得しています。
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(提供:新故郷支部基金会)
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以前は寺が持つ建物で、地震により壊されましたが、新しい構造を取り入れながら破損した内部を部分的に保存して、震災記念館をつくりました。いま中には、震災の記念物と復興まちづくりの物語が展示されています。
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(提供:新故郷支部基金会)
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多くの観光客に来てもらい、おいしい地元料理を食べてもらおうということで、母達の料理教室が開かれました。さらに、中には民宿を始めようという人も出てきて、民宿経営の勉強会が設けられ、民宿も作られました。
このように、村全体が一体となって、一つの新しい産業を築いていきました。
エコツーリズム計画を進めているうちに、民宿ができる人とできない人に分かれてきて、所得格差という問題が出てきました。また、環境整備など村の公的事柄を運営するためのお金も貯めておかなければなりませんでした。
そこで、公共基金(ファンド)をつくりました。これは、民宿など観光の仕事をしている人が、売り上げの数パーセントを公共基金ファンドに入れていくというものです。例えば民宿をやっている人は10%、物販の場合は5%という形です。このようなシステムを住民が自分たちで考え出し共同で運営していきます。
これは公共性を強調して一緒にやっていこうという新しい試みです。このような試みは被災地の他の村にも少しずつ現れてきています。
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