最後に千里ニュータウンに長く関わってきた者としての感想を話したいと思います。
ある人にニュータウンは社会主義的だと言われました。社会主義は、理想を求めて計画的な経済などが導入されましたが、時代の変化の中で修正を余儀なくされました。千里ニュータウンも理想の都市をめざして計画的に建設されましたが、成熟過程に様々な問題・課題が生じ、これに対応しながら変化してきました。このような意味で、ニュータウンは社会主義的だと思います。このようなニュータウンの中でも、千里が一番理想に燃えて創られ、だからこそ千里が一番美しいと思っています。
二つ目は「千里の地霊」についてです。千里ニュータウンは「新住宅市街地開発法」に基づく「新住宅市街地開発事業」によって開発されました。この法律には土地収容権が認められており、つまりニュータウンはこのような強い権限をもって開発されたのです。
近隣センターの中には、千里ニュータウンの土地を買収・収容され、その後の生活再建策として土地や建物が優先的に提供され、商業を行ってきた地権者(土地提供者)が沢山います。商業者でない地権者が商業を行ってきたことが、近隣センターの低迷の原因のひとつであるとよく言われますが、事実かどうかは別として、千里ニュータウンの様々な問題を辿っていけば、土地が買収や収容された開発当初に戻っていきます。このような意味で、千里ニュータウンには、開発当初の記憶や怨念が今も残っているのではないかという気がします。
それから、長男はきちっとしているけれども、どこか抜けているという意味の「総領の甚六」という諺があります。千里は最初にできたニュータウンですから、ヨーロッパのニュータウンを見本にして最も計画的に創られたけれども、どこか足りない、どこかぼーっとしていた。近年まで大阪府と大阪府千里センターがこの“甚六”を長年ていねいに管理してきましたが、近年、地元市と住民が“自分たちの街”として育てようとしている。このような意味で、千里ニュータウンは40年をかけて、やっと独り立ちしようとしている気がするのです。
あとは「反対運動」です。千里ニュータウンは、歴史的に見て「反対運動」の多い街だったといえます。先に述べたように、理想の都市をめざして計画的につくられたからこそ、一度つくられた街や計画を変えることに対する反対が強かったと思われます。また、住民は、無計画・無秩序な開発から自分たちの住環境を守るためには、反対という方法しか持ち合わせていなかったのかもしれません。しかし最近は、単に反対するだけでなく、自分たちで代替案を出し、参画していこうという動きが見られます。この意味で、千里ニュータウンの住民活動も変わってきたと思います。
最後に、計画的に建設された街に移り住んだ千里ニュータウンの住民の中には、「他人依存」的な性格が見られたと思います。しかし、今は住民と住民、住民と行政が連携していこうという動きがみられます。まちづくりは市民活動によって全てできるわけではありませんが、このような動きを見ていると、市民が地元市と協働しながら担っていける部分は大きいと思います。私も微力ながら、このような活動に携わっていこうと願っています。今日はどうもありがとうございました。
千里ニュータウン雑感
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