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堺市は今まさにLRTを新設しようとしている街です。図はその堺の1864年の姿です。ご覧の範囲は、だいだい人が歩いていける範囲になっています。 この図では左側が北になっていますが、ちょうど街の南北を紀州街道が通っており、東西方向に昔の竹内街道に重なる泉州と摂津の境の街道があり、赤い所が繁華街でした。こういう街のサイズがあったということです。
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それから鉄道が敷かれるようになり、街の形はずいぶん変わりました。 これは奈良の1894年ですから明治の中頃で、関西鉄道の奈良〜湊町間が1893年に開通したばかりの状況です。 この頃の奈良は、北に京街道があり、それから三条通という大阪から大仏さんにお参りに来るための繁華な通りがあります。それから、現在「奈良町」と呼ばれている辺りに繁華な場所がありました。 このように、鉄道はどの町でも町のはずれに造られていました。
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これが鉄道が世の中に受け入れられて、少し町の様子が変わった1938年の状況です。 昭和に入り、鉄道が初めて奈良に入って45年たった状態ですが、近鉄奈良線が1914年に開業し、繁華な街の場所がご覧のような形に変わってきております。 赤い所が中心市街地ですが、今どんどん寂れていって問題にされているエリアです。また奈良では、一部観光などと結びつきながら元気なままでいる場所もあるものの、駅前などは衰退してしまいました。そのような場所は、このとき新しく増えた赤い部分にあたります。
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これはデジタル土地利用図で、奈良の1996年の状況です。もともとの奈良は右側の赤い箇所が散らばっている辺りなのですが、どんどん街がだらしなく広がり、奈良以外の鉄道駅の周辺、あるいは幹線道路沿いに赤い所がずいぶん広がった様子です。 交通・人が行き交う所に賑やかな場所ができるということで考えると、どうやら交通手段が自動車にシフトしたことが、今更ながらですが中心市街地の衰退を招いていると思われます。
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