見えた。これがデザインの力だ!
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デザイナーはいかにあるべきか

 

周りに気をつかっていく

難波健(北摂コミュニティ開発センター)

 みなさんのお話を聞いて、デザイナーであることが自己主張ばかりではなく、周りに気をつかっていくことであるというのが新鮮に感じました。


デザイナーは活動家でなければならない

鳴海邦碩(大阪大学)

 昔、都市デザインの手法と言う本を作りました。学生にとって解り易い教材になることを目指して編集・執筆しました。ところが、実際の都市デザインの現場の仕事はなかなかこの本に示したようには展開しないのです。「教科書通りにはいかない」ということはその通りなのですが、「教科書」で論じているレベルまで至っていないということを痛感することがあります。

 京都の鴨川の納涼床のデザインはなかなか優れたものだと思います。その成り立ちを振り返ってみると、あの場所でずっと商売をしていきたいという商売人の想いが、いい環境を作ってきたことが解ります。あそこで生きている商売人が、こんな空間を作りたいと思ってできた、素晴らしい都市環境デザインの実践例なのです。ところが、役所でやられていることを見ると、多くの場合、担当者は空間づくりの本当のねらいを考えないし、真剣に組み立てない。戦略なしに思いつきのようなことをやっている。

 ある場所に土地を持っている人は、その土地の利用の仕方を必死に考える。あるいは、ある場所に住んでいる住民は、たとえば子供のためにいい環境を作ろうとして、ゴミを拾ったりする。このように本気を出してやらないといけないと思う人は、そう多くはいないのが残念ながら現実だと思う。本来役所にそういうことをやってもらいたいのですが、ちゃんとやっている役所はほとんどありません。その土地に強い関わりを持っている人が、覚悟を持って取り組むことが、いいデザインを生み出す出発点なのです。

 環境に変化をもたらす仕事は現実には沢山あります。そのなかで、たまたま役所の人の網にかかった仕事や地主さんが取り組む仕事の中から、専門家に頼むデザインの仕事が決まってくる。そのため網にかかる魚、つまり専門家が取り組める仕事はごく限られてくる。だから、その少ない魚を上手に料理して、いい仕事にしていかなければならないのです。

 中村さんの発表にも出てきていましたが、自分たちが楽しいと思う環境をみんなで楽しく作っていくこと、またそれを誘導していけるプロがいるのかどうかが重要なのです。先ほどの鴨川の例の場合でも、コンサルタントが付くともっと良かったかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。しかし、その場所にきちんと関係していないと、デザインを発注する際にも熱意が生まれてこないと思うのです。

 デザイナーが活動家でなければならないという北川さんの言葉がありました。要するに、限られたやりたい仕事だけを待っていてもだめで、自分から積極的に働きかけていかないといけません。積極的に働きかけるとは、都市環境デザインというのはこういう事だとアピールすることです。活動するほどいい仕事が増えるはずです。

 とりわけ都市環境に関わるデザインとして、公共的デザインを行うデザイナーも多くいて、公共的なメッセージを発しているわけでもあります。デザイナーは活動家であるということを考え合わせて、都市環境デザインというものはデザイナーの生き方そのものではないかという結論に至るのかもしれません。

 「形のないものを見えるようにする。感じにくいものを感じられるようにする。起きていなかった行為が起きるようにする」というまとめがありました。

 例えば、どんな場所の計画でも「にぎわい」と書いてあります。しかし、にぎわいをデザインでどう作り出すのでしょうか。阪大の博士課程の学生が研究した結果によると、公開空地などのオープンスペースのデザインコンセプトとして、多く場合、「にぎわい」と書いてあったそうです。役所は「都市の概念=にぎわい」しかないかのように、単純に捉えている。「形のないものを見えるようにする。感じにくいものを感じられるようにする。起きていなかった行為が起きるようにする」というまとめは、場所には色々な意味が込められる可能性があるという話だと思いますが、実際の現場では「にぎわい」というコンセプトだけで発注されるのです。

 都市の空間の中には何を出現させたらよいのでしょうか。このことを誰も、とりわけ発注者は考えていないわけで、あるいは表現することができないでいるわけで、それをデザイナーが読み取ってどうしたいのかを示していかなければならないのかもしれません。


クライアントの良識に働き掛ける

高原浩之((株)HTAデザイン事務所)

 もっとコミュニティの中に入っていくべきではないでしょうか。業務として入ることはありますが、代官山での槙さんのように、地域の中にもっと入っていく必要があると感じます。

 それと都市のパトロンの必要性も感じます。最近関わったプロジェクトの話ですが、あるディベロッパーでほぼ決まっており、その計画は非常に経済効率のよい計画がされていました。

 それに対して、私たちは経済性ばかりでなくアカデミックな機能も入れましょう、代々住んできた町でお金儲けだけをしたいんじゃないでしょうと提案しました。

 これによって今までの経済優先の案にストップがかかり、我々としても地主さんの良識に勇気付けられました。

 こうした事例がそのまま仕事になればいいのですが、残念ながらまだなかなかそうはいきません。


仕掛け人や遊び人

中村伸之(ランドデザイン)

 分科会をふり返ると、活動家という言葉よりも、仕掛け人や遊び人という言葉が頭に浮かんできました。隙間を残して花や緑を植えるとうアクションを誘発する、作り過ぎないことで人々の関わりを育てる、という意味では仕掛け人です。

 遊び人は、場所の雰囲気を変えていく、活性化するようなキャラクターであるべきではないでしょうか。それから、創造するにはみんなの意見を聞いているだけではだめです。デザインにはある時点で飛躍が必要であり、みんなの前でアイデアを出せる瞬発力や流れを変える力が重要なのです。

 また、「にぎわい」に代わるものとして、記憶に残る都市を作っていくことが必要なのだと思います。にぎわいと言うと、集団の中に紛れて、個人の思いが薄れてしまいがちになる。それよりも、自分対都市で一対一で向き合って、一人ひとりの心の中に残るものを作っていくことが必要だと思います。一人ひとりの心に残る強力な体験(物語)となり、記憶となる場所が必要なのです。


皆が思っていることを読み取る

長町志穂(LEM空間工房)

 活動家と言われると政治活動家とか安保闘争とかのイメージが浮かんでしまいます。むしろ必要なのは、みんなが共有しているようなことが成り立っていない状況を、成り立たせたいという思い。それはものを作る人間のベーシックな気持ちの原理ではないでしょうか。

 「にぎわいのある町にしたらいい」「シンプルな服」「モダンな住宅」などのあいまいな形容詞は、私にとっては全部いっしょです。にぎわいという表現ばかりになっていることはそれほど罪な事ではないと思います。なぜなら、そのようにしか書きようが無く、これが限界のボキャブラリーなのです。それ以上書いてしまうと、途端に意味がわからなくなってしまう。解釈するなら、「どちらかというと元気そうな方向のこと」を意味していると考えれば良いでしょう。実際その場所に本当に必要なことは何なのかは、その場所に向き合うことで理解することができますが、媒体に発表されると「にぎわいのある町」になってしまう。

 最近の事例ですが、滋賀県の商店街で「ルミナリエをしたい」という話がありました。思いを述べる方に対して、「ルミナリエなんてできませんよ」とは言えません。でも、顔を突き合わせて話をしていく中で、「自分たちがしたいのはルミナリエではなかったんだ」と思ってくれる瞬間がある。

 分科会Cの結論とも関係しますが、何か特別なことを起こす力ではなくて、皆がまだ気づいていないことを考えていることがプロフェッショナルとして必要なのです。その商店街は結局ルミナリエにならずに、10mくらいの間隔で提灯を吊っていきました。アーケードの商店街には情緒的な雰囲気が元々は無いのですが、白い和紙の提灯が並ぶボリューム感の良さ・つながりの街区との連続感を、私は当初からイメージしていましたが、街の人たちは当初は想像もしなかったものです。

 新開地では、暗い道を明るくする仕事をやりました。明るさを感じる安心な町にしようとしたのですが、これはカップルが歩くようになったことで満足してもらえました。新開地に人が多くなったわけではありませんが、本来にぎわいとは関係ないはずのカップルが歩くようになったという事実が、活気が出たという言葉に代わったのです。

 結局は、言葉による解釈は「していない」ということがぴったりではないでしょうか。


作ってしまうことに対する怖さ

高原浩之((株)HTAデザイン事務所)

 クライアント思いが把握できるプライベートの仕事の場合は、デザインのゴールは比較的明快に掴めます。しかし公共施設の場合には、公共という非常に幅の広いクライアントが居るため、かえってデザインのゴールが掴み難くなりきれないため、最大公約数的に「にぎわい」という表現になってしまうのかもしれません。デザイナーは、たとえば、目先の目標を「にぎわい」とすることで、30年後にはさびれてしまうようなケースの場合。「もっと長期的な視野に立ったデザインのほうが良い。」といった意見をはっきり言える能力が必要でしょう。

 またデザイナーには、分析や評論と違って、デザインしたものが実際に「物」として出来てしまうという緊張感、怖さもあります。

 「目先のにぎわいもないし、10年後のにぎわいもない」ということへの不安もありますが、同時に自信を持つことの必要性も感じます。

 そのために自分を磨くことを常に心がけないとならないでしょう。


活動家である前にオブザーバーであるべき

松久喜樹(大阪芸術大学)

 まちづくりは「にぎわい」を本当に欲しているのかという疑問はあります。広義の意味ではにぎわいですが、実際の所、狭義の意味でのにぎわいは困るのです。例えば広場とか公園などでは、ホームレスがいっぱい来てにぎわっても困るし、関係のない人がたくさん来て騒がしくしてもらっても困る。民間企業のビルの前の広場なんて来てもらったら困るから、座るところも作らないし、できるだけコンクリートのままにするなど、あまり居心地のよい空間をつくらないようにしている。あまりにぎわってもらったら困るという意味合いを込めたデザインが平然と行われています。

 デザインにはミスマッチがたくさんあります。民間の仕事であれば、建ててお客が入らなければすぐ失敗とわかります。一方で公共の仕事の場合、答えが出ないために失敗を繰り返すことになってしまう。チェック機能が無いために、ミスマッチがどんどん繰り返されてしまっています。そのためにも、我々は活動家である前にオブザーバーであるべきではないでしょうか。


デザインの評価基準が言葉で表せていない

藤本英子(京都市立芸術大学)

 にぎわいの問題は、デザインの評価基準が言葉で表せていないことが原因ではないでしょうか。にぎわいというものは経済効果を評価した言葉なので、にぎわいという分かりやすい言葉を使うことで、なんとなく経済効果が上がるような雰囲気がしてしまうのです。

 私は運動家という言葉をよく使います。教師であり論文も書きますが、辛口の理論家ではなく、実際に現場に入り、動いていくことで何かを考えていこうと思っています。


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