司会:
では最後にデザイン基準に関わる議論に移りたいと思います。
今日、御所周辺の地区を歩いて、改めて感じたことがありました。戸建て住宅で特に思うのは、「和」の解釈で表層的なデザイン表現が無理に行われていること。それに対し、例えば庇や軒を使わず、本質的な和の解釈をしていて、現代建築だけど「和的スピリット」を持つ建物もあるわけですよね。これまでの基準(美観第二種)であれば、そうした建物は特例で建っているのだと思います。
今回のデザイン基準の中では、文章化されているのは表層的なディティールだけで、そうした建物の存在はどうすればいいのかと思います。ヨーロッパの建物なら骨格と装飾を分けて論じることもできますが、和風建築は建築とインテリアが一体化した世界ですから、ディティールだけでその本質が論じられないものだと思います。軒だけ付けても和風建築になるものではありません。今日見ただけでも、完全に基準を満たしているけど怪しげな「和風」「ニセ町家」がありました。
先ほどの建築基準法の話もそうですが、建築デザインにおいては文面化されてないところが大事なんです。目に見える形でなく、京都的な、和風の精神を解釈する行為が大切で、これはデザイン基準にすることはできないジャンルです。しかし、地区単位でそうした建物を選ぶということが可能なら、できるかもしれない。だけど、問題は町の人や個人がやりたいと思ったデザインを、具体的に表面化させていく専門家や工務店の「罪」をどう処理していくかです。
明文化できないジャンルのデザイン性を、今後どのようにやっていけるか。その辺をみなさんにお聞きしたいです。藤本先生はアルゴリズム、シナリオとして書かれていましたが…。
私が15年ほどアドバイザーをやっていて本当に思うのは、規制だけでは悪いものは抑えられてもよりよいものは出来にくいということです。やはり、現場で一軒一軒見て、さらに町内全体も見て判断しないと、そのデザインが良いものかどうか分かりません。基本的には周辺と調和できるデザインが「良いもの」ですが、そうすると今度は周辺とは何ぞやという話になります。
先ほど前田さんも触れていましたが、行政の景観担当者が現場に行かないとダメだというのは私もそう思います。専門家が一軒ずつ見て判断できる仕組みが必要だということが私の提案したかったことです。問題あると思えば、専門家も含めて地域でディスカッションできるシステムが必要と思います。こういう仕組みがきちっと動いていけば、地域の建物は連鎖的に良くなっていくと思うんです。しかし、そのためには建物をきちっと見られる専門家がもっと育っていかねばいけません。ただ専門家と言っても、行政担当者だと行政指導になってしまいますから、地域ごとのアドバイザーが育つ必要があると考えています。
揚げ足をとるようですが、私は基準だけでは悪いものは防げない上に、良いものも育たないかもしれないと考えています。
藤本先生が提案されたデザインの協議調整の場が作れて、いろいろなルールも出来たとして、最後に何が残るか。おそらく「協議調整は<お願い>の域を超えられるか」が最後の検討課題になってくると思います。いくつかの自治体ではすでに協議調整の場を設けてやっていますが、やはり私権の問題や事前明示性に欠ける問題があり、「お願い」の域を超えられないから無意味だという声もあります。しかし、私はこの点が今回の話の中では一番重要なポイントで、無意味なことではないと考えています。
美しさとか文化的な価値は基準になじまないと再三言っていますが、つまり基本的にそうしたものは人に強制できないものなのです。何が出来るかと言えば、同意を求めることだけで、その場が協議調整の場なのです。
今何が問題なのかと言うと、そうした協議調整の場をつくろうといろんな自治体が動き始めているのに、行政手続き法等で「それは違法だ」とはねつけてしまうことです。
最終的には、自分たちの町や近隣に何がふさわしいかを議論して選択できる方が、法律や基準でこれがふさわしいと決めつけるよりも人間的な社会なんですよ。もちろん、美しさが議論で決まるわけがないから、ずっと議論し続けないといけない。しかし、それがやれることこそが良い社会と言えるんですね。それをはき違えて、お願いしかできないのなら協議調整なんてやめようとする事の方が問題だと思います。
以前、JUDIで行ったことのあるフィンランドのヘルシンキでは、重要な建物のほとんどがコンペで作られています。で、市民が「こないだスティーブン・ホールのやった美術館のデザインはヒドイ」なんて議論しているわけです。何がヘルシンキにふさわしいかを市民が議論できて、次はこうしようと話し合える社会こそが大事です。ですから、作る権利を持っている人にはお願いしかできないのが基本であって、それでいいんですよ。「ふさわしいもの」を強制したらマズイんですね。
藤本:
そうですね、スミマセン、私の間違いです。基準だけだと悪いものもできます。
丸茂先生がおっしゃる話は大変もっともなのですが、京都は日本を代表する文化的な環境を持っている町ですから、東山の裾野とか御所の周辺といった所は一定の品の良さを保つ(あるいは品が落ちないように保つ)必要はあると思います。これまでも東山や三年坂など美観地区では、京都の美を保ってもらえるようかなり強制力のある規則を作ってきました。そうしないと、伝建地区の中でも最初から「罰金はいくら払えばいいのか」と言って、よそから入ろうとする人がいるんですから。京都市の美観地区の指導員は、これまでも相当苦労しながらやってきているんですね。
そんなわけで、京都の町は文化的な環境を保つ責任を取らないといけない範囲があるんです。今回の新政策は、その範囲を広げたわけです。広げたとたんに、丸茂先生が指摘した問題は出てくると思います。ただ、その時も京都の町全体が日本人にとってどれだけ大事で、日本人の期待にどれだけ応えればよいか。そこのところの判断で、京都市は今回の新政策のディティールを作ったのではないか。そんな風に思います。
司会:
協議調整は紳士協定のように、お互いが紳士淑女でないと出来ないものです。京都ならではの問題かなと思うのですが。
他に、これまでまだご発言なさってない方、いかがですか。
私の問題意識は、セットバック方式でまちづくりを進めていった場合、都市空間のあり方として問題はないかということです。これについては先ほど金沢先生も同じ趣旨でご発言されました。また田端先生からも、街区の真ん中に空間がある構造が京都の伝統というご指摘もありました。すなわちセットバック方式を採用し、今まで空いていた街区中央を高密にしてしまうと、景観問題とはまた違うレベルの、伝統的空間構造のあり方を変えてしまうという問題が発生するのではないかという懸念です。
景観だけで都市空間・都市計画を考えるのはやはり無理があるのではないかと思います。デザインの根本に関わる話ですし、金沢先生のご指摘もありましたので、この問題についてのコメントをどなたかにいただきたいと思います。
田端:
伝統的な町家では敷地後方にとった空地により、街区単位で居住環境を整えていました。ずっと続いていたこのような知恵ですが、現在の制度はもう無関係になってしまったわけです。
いまおっしゃったように「景観だけでそうした居住環境は維持できない」というのはその通りでしょう。私も景観で全てが解決するとは思っていません。
私としては、両隣の境界線一杯まで使い切って、奥行きの深いところの使い方を考えていくことで、結果としてうまく空地が作り出せる可能性があると考えています。これには狭い敷地のなかでの建築技術開発ともからんでくる問題だろうと思います。もうひとつ考えているのは、建て替え時のことです。
町家程度の小さな単位で建て替わりが継続していくのがこのような町の基本的な条件なのですが、その時に住みながら働いていける仕掛けを整えることです。いろんな社会的、経済的条件が関係してきますが、京都市による支援策−経済的・経営的支援になるでしょうが−なども併せていかないとダメでしょう。全てを景観に求めるのでなく、総合的な施策とからめて、新しい景観施策を進めていかねばならないと思います。
デザイン基準について
基準化できないことが大切
長町(レム空間工房):
協議の場が大切
藤本:
お願いしかできない、ことこそ意味がある
丸茂:
お願いだけではやはりダメな場合もある
山崎:
景観だけでは良い居住環境・空間構造はできない
西(都市再生機構):
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