ミナミはよみがえるのか
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宗右衛門町の概要

 

ミナミの概要

 ミナミは大阪市中央区の南側に位置した大阪有数の繁華街で、昔は旧南区を指してミナミと呼んでいたことからミナミといわれています。その中心を担っていたのは道頓堀川沿岸で、川の北側には、東西方向に宗右衛門町、南側には道頓堀があり、川を挟んだ南側南北方向に戎橋筋北側南北方向に心斎橋筋という大阪でも有名な商店街であり、西に御堂筋、東に堺筋といった場所に位置しています。

 旧南区を指していたミナミエリアも最近はどこまでがミナミかがよく分からなくなくなるほど拡大し、アメリカ村や堀江中央区をこえ、浪速区なども含めてミナミと呼ばれ始めています。


宗右衛門町の概要

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宗右衛門町商店会のエリア(2004年10月調査データー)
 
 宗右衛門町は、町会が商店会に発展した経緯があり、商店会の境界が単純な線では描けないという特徴を持っています。宗右衛門町に限った話ではないのですが、街のひとつのルール化として地区計画等に取り組んでいく際に少々厄介なことになっています。

 まちづくり当初の宗右衛門町最大の課題が、キャッチセール(俗に言うからカラス族)とその当時増え始めた無料案内所に対する問題でした。安心安全な街を取り戻すために、まず進めていったのが、ミナミ歓楽街環境浄化推進協議会という取り組みでした。この取り組みは、2005年12月の迷惑防止条例の改正2006年2月の無料案内所に対する新たな条例作りでした。条例施行後は、いったん収まったかのように見えたのですが、しかし、現在では、動き回るキャッチセールスが出没し、無料案内所は、増え続ける一方です。

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現在の宗右衛門町通り
 
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現在の宗右衛門町通り
 
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現在の宗右衛門町通り
 

宗右衛門町の歴史

 宗右衛門町はミナミの中心を東西に走る道頓堀川の北側の通りである宗右衛門町通りを取り囲む形で存在していました。

 道頓堀川完成後、江戸時代に西横堀川との合流点を境に「布袋」「宗右衛門」「御前」「久左衛門」「吉左衛門」「立慶」「久郎右衛門」と町屋建設が進み、川八町が誕生しました。

 大正時代には、大阪の花街と言えば、「宗右衛門町」「九郎右衛門町」「松島」が挙げられました。1回あたりの消費金額がそれぞれ「12円35銭」「7円72銭」「1円35銭」であり、宗右衛門町は格式ある花街でした。

 しかしエイペック開催後、トルコ風呂等の問題もあり、棲み分けされていたものがバラバラにされ、花街の秩序が崩れてしまいました。その影響で、子供や女の人も訪れることができていた代表的なミナミの繁華街は、現在深刻な安全安心対策を必要とする街になってしまいました。

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宗右衛門町の業種割合
 
 宗右衛門町全体の業種の割合を見ますと、61%がサービス業に属します。次いで、42%の飲食店で、ブティックなども少数ながら存在しています。サービス業61%のの内訳は、約50%がクラブやスナックなどで、次いで45%が風俗店(この場合の風俗は、セクキャバ、キャバクラなどを指します。)です。また、道頓堀などの周辺との大きな違いは、大きなエンターテーメント施設やパチンコ店などがないことがあげられます。

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宗右衛門町通り立面写真
 
 宗右衛門町の立面写真を並べたものです。宗右衛門町町並みの特徴には、川側(南側)建物の平均間口が5〜5.5m、奥行き22mのビルが林立していることがあげられます。この形状は、川側に遊歩道が出来ても、前面道路(宗右衛門町通り)と遊歩道デッキの高さとの差約1.5mを克服し、川側に入り口を設けることがなかなか難しいことが伺い知れます。

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