まともに見ようよ 川と地域と私たちの生活
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近代以前の治水事業

 

日本で初めての治水事業

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日本書記
 
 日本の治水が歴史上初めて記録されたのは、日本書紀の仁徳天皇の章です。そのなかで難波の堀江を開削したという話と茨田の堤(まむたのつつみ)を造ったという話があります。これが日本の歴史上初めて出る治水事業です。これは淀川の話でして、その中に茨田の堤を造った時の説話があります。

 堤防づくりがなかなかうまくいかないので、人柱にしようと、武蔵人強頸(むさしひとこはくび)という人と、河内人茨田連衫子(かふちひとまむたのむらじころものこ)という人に、「川の中に飛び込め」という命令が下りました。

 そうすると武蔵人強頸という人は命令に従って飛び込み、死んでしまいました。次に河内人茨田連衫子という人に「おまえも飛び込め」と命令したところ、この人は「もし神様に身をささげるということならば、神様が本当に自分を欲しているのか占って欲しい。ひさご(ひょうたん)を川の中に放り込み、ひさごが沈めば私も川に飛び込もう。しかし沈まなければ、私は信じない」と言いました。

 当然ひょうたんは沈むわけもなく、浮いています。そこで彼は「それ見たことか。神様の言うことなどインチキだ。私は人柱になどならない」と言ったそうです。ここで(私、勝手なことを申しますと)、関東人と関西人の差が出てくるわけです。関東人は、お上の言うことを割合素直に聞きますが、関西人はお上が言おうが何が言おうが、そんなことは知るもんかという性質が、仁徳天皇の時代から延々と続いているというのが、1つの教訓であります。

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 これが仁徳天皇の頃の、淀川の下流、大阪の地形図です。ブルーの所は海です。これは難波潟と言って入り江と言いますか、海がずっと入り込んだところです。点々のところは湿地帯です。仁徳天皇の難波の宮があったのが上町台地です。ここはその後、石山本願寺ができ、大阪城ができ、現在は官庁街が集まっているという場所です。

 難波の堀江は中洲が繋がっていたところを、非常に水はけが悪かったので、掘削したのだと言われています。

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茨田堤(まむたのつつみ)跡
 
 茨田の堤というのは京阪の古川橋からちょっと行った所にこれがそうだろうという史跡があります(ちょっとあてにならないんですが)。

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京橋天満橋駅付近
 
 写真の正面に見える大きなビルが、京阪天満橋の駅ビルです。手前に大川が流れています。先ほどの難波の堀江を掘削したというのは、ちょうどこの辺、中洲があったところを開削したのだろうと言われていいます(これはどうも確かなようです)。それが日本で始めての治水事業であります。


秀吉の負の遺産

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 時代が下がって、次に淀川の形が大きく変わるのが秀吉の時代です。秀吉は淀川の東側に文禄提という堤防を造ります。京都と大阪の軍事用道路として、なおかつ淀川の水があまり氾濫しないように造ったわけです。

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巨椋池の変遷1、上の赤い点が伏見城(出典:淀川資料館資料)
 
 それからもう1つ大変大きなことをやっているのが、京都の南の地区であります。桂川、宇治川、木津川の三つの川が巨椋池という大きな池に一旦入って、流れていっておりました。

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豊公時代巨椋池沿岸土木工事図(『巨椋池干拓誌』巨椋池土地改良区発行)
 
 ところが秀吉はここに伏見城を造りました。この伏見城の外堀と、伏見港を造って、舟運を開けるという意味で、本来宇治川は一番低い巨椋池に本流が行っていたものを、槇島堤という堤防を造って、山手のほうに巻いていきました。

 それから伏見と奈良を最短コースで結ぶため、太閤堤を造りました。これは現在の近鉄の京都線が走っています。

 さらに桂川沿いでは大阪街道をつくりました。これをずっと北に上がると、旧千本通に行って、京都の玄関の羅生門に行くという格好になっています。こういう大土木工事をやったわけであります。

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 現在どういう格好になっているかと言いますと、巨椋池は昭和16年に干拓されています。そして宇治川は秀吉が造ったように山手の方に流れていっています。赤い線の横断図を作ったのが下図です。

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 それを拡大したのがこの図です。現在近鉄京都線が走っている所が太閤堤です。秀吉は太閤堤を巨椋池の真ん中に造っています。そして宇治川はそれよりもずっと山手にあります。水というのは、高いところから低いところに流れます。それを秀吉が槇島堤を造らせて、その堤防で宇治川を山手の方に無理やり引っ付けているわけです。ものすごく不自然なことです。この堤防が切れたらどーんと低い方へ水が押し寄せます。

 400年前のこの頃は、秀吉はもう晩年です。朝鮮出兵もやって、かなり狂っていたのではないか。こういう本当にばかげた不自然なことをやってのけたおかげで、400年経っても、非常に危険な地域に未だになっているわけです。ですから私は、これは秀吉が造った負の遺産だと思っていましたし、人にも言っていました。

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現在の槇島堤
 
 これは現在の槇島堤で、右側に宇治川が流れています。

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京都新聞より
 
 三週間ほど前に、太閤堤の一部が出土しました。皆「すごいなあ」と、歓迎ムードです。ちょうどその時に朝日新聞から電話がありまして、何かコメントを下さいということでした。実は私、そのとき酔っ払っていたもので(笑)、私が普段思っていることを言ったわけです。そうすると翌朝の新聞に出たのが「太閤堤は、力を持った人間が自然を支配しようとしたシンボルだ」。皆が歓迎ムードの時に、このコメントだけが浮いて、何か水をかけたような格好になりましたが、私は実際にそう思っています。

 私には1つ望みがありまして、死んだら昔死んだ方と話をしたいなと思っているんです。その一人が秀吉でして、秀吉に「あんたがええかげんで中途半端な土木工事でこんなもんを造ったから、400年経ってもあの辺はものすごく危ないんや」と言おうと思っています。しかし、秀吉は私に反論するのではないかとも思っています。「そりゃあ私も無茶をやった。しかしその後あんたたちが造ってきた治水事業、国土づくりは、私のやったことよりもっと酷いことをやっているんじゃないか」と。今日はその辺のところを、つまりどういうことを秀吉に反論されるのかをお話したいと思います。

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