都市空間の回復―思考の軌跡と展望--
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前史〜作る人であったころ−ヘルシンキから広大キャンパスまで

 

 今でこそ私は「しゃべる人」「考える人」になっていますが、それ以前、私は「作る人」でありました。


フィンランドの仕事

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 左の図はヘルシンキ郊外の住宅地のプラン図です。ヘルシンキの建築事務所に入るときのテストとして、最初に敷地を与えられ「何でもいいから描いてみろ」と言われて描いたものです。そうすると「面白いからもうちょっと描いて見ろ」とすぐ隣の敷地を与えられて描いたのが右の図です。

 今見ると、60〜70年代に僕らが「アーバンデザイン」と呼んでいたものがあまりに生々しく出ていて気恥ずかしいですが、この2枚の絵が気に入られて、その建築事務所に入ることになり、実際の仕事に携わるようになりました。

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 最初の仕事で、実施計画に至ったプランです。いろいろと作業をしていった中、私が一番びっくりしたのが、その作業の結果出来上がったプランが市議会にかけられて条例になったことです。計画しデザインしたことが条例になってから、具体的な建築に取りかかっていくのです。そのプロセスを初めて知ってびっくりしたことが、フィンランドでの経験でした。

 このフィンランドの体験の後、「都市計画をもっと知るならやはりイギリスだろう」と思い立ち、帰国前にイギリスの事情も勉強してみることにしました。


イギリスの仕事

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 イギリスではミルトンキーンズ開発公社に入り、そこが手がけている「ニューシティ計画」(ニュータウン計画)に参加することになりました。

 ここは900ヘクタールという広大なエリアで、すでに大まかなプラン自体は出来上がっていました。私が参加したチームの仕事は、セントラルエリア周辺の住宅地計画を手がけることでした。そこで、私は全体のストラクチャー(構造)計画を設定することになったんです。

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 この図がセントラルと周辺の図です。白地はセントラル部分(シティセンター)で、この構造はすでに決まっていました。それに合う形で、その周辺のブロックのストラクチャーを設定していく作業をいたしました。1ブロックが100ヘクタールぐらいある広大なエリアです。

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 図のように、とても堅いグリッドの中に、いろんなタイプのハウジングを入れ込む作業をしていきました。

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 建設がちょうどこれぐらいまで来た頃に私は帰国することになったのですが、帰国後もやはり気になってどういう形に仕上がったのかを時々見に行きました。

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 その後の完成した図ですが、ほぼ当初の計画通りに建ち上がっています。特に早くに建築が始まった所は、私どもの計画通りの形になっています。周辺は若干修正が加えられたりしていますが、ほぼ最初の計画通りと言っていいでしょう。


海外の体験が私に与えた影響

 私にとってフィンランドとイギリスの二つの仕事の経験は、とても貴重な体験でした。20代後半をほぼ海外で過ごしたことになるのですが、この体験はその後の仕事を考える上でも、とても重要だったと思います。やり方はそれぞれ違うのですが、どちらの国も「計画をちゃんとやり遂げる国なんだなあ」ということが印象に残りました。

 また、後になってそれ以上に重要だったかもしれないと思うのは、当時のヨーロッパのライフスタイルに触れたことです。端的に言うと、「ゆっくり静かに生活を楽しむライフスタイル」です。

 「生活を楽しむ」スタイルがあったからこそ、フィンランドではインテリアを楽しみ、イギリスではガーデニングを楽しむという行為が出てくる。その延長線上に、都市の風景、都市の景観、都市の環境がある。つながっているんだと実感しました。私自身もそういう価値観に染まって、日本に帰ってきました。


帰国後

 日本に帰ってから、先輩の事務所に勤めたのですが、1年に3日も休めれば良い方という忙しい生活になりました。ちょうど列島改造論の後ぐらいです。つまり、日本では「生活を楽しむ」どころか、生活そのものがない日常だったんです。

 また仕事面でも、ヨーロッパで見たような都市計画をちゃんとやっているという内容でもない。5年ほどその事務所で鬱々と過ごしたのですが、さすがにこれはマズイと思うようになりました。

 「ちゃんとした計画らしい仕事をしたい、もう少し時間的な余裕も欲しい」と探しておりましたところ、広島大学のキャンパスの仕事があると聞き、そこなら都市計画の仕事が出来そうだと、初めて広島という地方都市に住むことになりました。


広大キャンパス計画

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 左の図が西条の広大新キャンパスの計画図です。右の図は最初に移転した工学部の全体図です。

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 全部が完成する前に、私は関西大学へ移ってしまいました。全体の大まかなプランニングをいかに担保すべきかという観点から、地区計画の絵も描いたのですが、残念ながら受け入れられることなく広島大学を去ることになりました。

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