都市空間の回復―思考の軌跡と展望--
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見えない都市を巡る専門家の五つのスタンス

 

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 ところで、我々はどちらかというと市民ではなく専門家のカテゴリーに入ります。ここからは、市民の話は置いておいて、専門家について私の考え方を説明させていただきたいと思います。

 まず状況として磯崎さんが言い出した「見えない都市」というものがありますが、そういう状況の中で専門家には五つくらいのスタンスがあるのではないかと考えました。一つは「眼を養う」。もう一つは「近代化を待つ」。さらに「作法を育む」「装いを凝らす」「アートを吹込む」という五つです。


眼を養う

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 まず「眼」を養うというのがどういうことかというと、見ようとしない結果として見えなくなっているということです。例えば「見る処花にあらずという事なし、おもう所月にあらずという事なし」という芭蕉の言葉にもあるように、ある種の絶対的な境地の中では美醜を越えてしまうのです。

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篠原一男の混乱の美
 
 そういった典型的なスタンスを取っている人として私が理解しているのは篠原一男さんであります。彼は「世界のすべての街の通りに、醜悪といわれるような風景はない」と言っています。実際、芸術的な表現として三木淳の無計画都市の写真も挙げられます。

 またテクノスケープ論などに代表されるように、眼の進化論といった議論も絡んできます。柴田敏雄さんのコンクリートの擁壁を写した写真も、見方によっては美しいといえるのではないでしょうか。


近代化を待つ

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ロス・アンジェルスのダウンタウン
 
 次のスタンスとして「近代化を待つ」というのがあります。都市風景の喪失は近代化の途上の一時的現象で、過渡期の暗黒時代という言い方もしていますが、いずれ極相の都市風景に収束すれば問題ないのではないかということです。極相の風景は、ル・コルビュジュの「現代都市」や、ロス・アンジェルスのダウンタウンなどで部分的には実現しているともいえます。


作法を育む

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 3番目のスタンスとして「作法を育む」ということがあります。これは配慮を促すということで、心地よい程度に美しく、芸術にならない程度に平凡な都市風景というものを念頭に置いたものです。専門家らしくないかもしれないが、都市美協議への参加といったものも、専門家のスタンスとしてあると思います。


装いを凝らす

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 それからマーケットが求める風景を作るということがあります。見えないならば見えるように都市風景を造ろうということで、ファッションとしての都市デザインみたいな考え方もあります。

 これをやるとディズニーランド化などのように、都市風景の回復と引き換えにリアリティを喪失してしまうといった問題も起こってしまいます。時代が見たい風景を探るというのも一つのアーバンデザインかもしれません。

 下の2枚の写真の左は上海の住宅ですが、マーケットがこういうものを求めているのだなと感じられます。

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ユニバーサル・シティ・ウォーク 浦東新区の振興住宅
 

アートを吹き込む

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モエレ沼公園、イサム・ノグチ
 
 最後は「アートを吹き込む」というものです。これは「眼を養う」という最初のスタンスと近接していると言えます。だから、「眼を養う」「近代化を待つ」「作法を育む」「装いを凝らす」「アートを吹込む」は、再び「眼を養う」に繋がる一種のサイクルです。

 アートによる都市風景づくりや、彫刻のあるまちづくり、アートワークみたいなものがあります。広島でもおとなしい都市美行政だけでなく、ピース・アンド・クリエイトなどで意欲的な建築家を呼んだりしています。2年前のフォーラムでも紹介があった越後妻有の事例もあります。

 モエレ沼公園のように風景づくりの領域に入るものもあります。


専門家の風景づくりのインセンティブ

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 専門家の風景づくりのインセンティブを整理すると、「眼を養う」と「近代化を待つ」というのは何もしなくてもいいよということです。

 何かするということになったときに、「作法を育む」ということに関して、行政が行為規制などで公益性を保ち、また「装いを凝らす」ということに関しては、企業がマーケットをにらみながら行うのです。

 また「アートを吹き込む」というのは、作家が名誉や自己実現のために行うことになります。

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