都市空間の回復―思考の軌跡と展望--
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ハンナ・アレントの思想との出会い

 

 私のステップとなった3つ目の出会いが、ハンナ・アレントの思想との出会いです。

 ハンナ・アレントの思想は、第8回JUDIフォーラム「参加型都市環境デザインを探る」(1999.10開催)の小冊子の中で、「ハンナ・アレントにおけるデザインと政治」と題した一文で紹介いたしました。また同じテーマで講演した記録もHPでご覧いただけます。

 実はこの時も、フォーラムの中では十分説明できずに終わってしまった苦い思い出があります。今日は、せっかくですから、ゆっくり説明できたらと思います。


(1)デザイナーの精神は「物の世界を脅かす」

 ハンナ・アレントは女性の哲学者で、ハイデッガーの弟子とも恋人とも言われた人です。ユダヤ人であったためにアメリカに亡命し、アメリカでいろんな著作を著して、各方面に影響を及ぼした人物です。

 私がまず共感したのは、ある著作の中で「デザイナーの精神は〈物の世界〉を脅かす」と言及していた所です。私のように都市工学科で、建築家を横目で見ている人間にとっては「そうだなあ」と思える一文だったんです。つまり、有能で創造的な建築家ほど危なっかしいということです。

     
     完成品の存在に対する最大の脅威は、ほかならぬそれをつくりだしたメンタリティそのものから生じている。物の世界を打ち立て、建設し、飾り付ける場合に必然的に優位を占めるはずの基準や規則は、それが完成された世界そのものに適用されるとき、全く危険なものとなる。
 
 また一方ではこの文章の前に、ハンナ・アレントは「物を作る、物の世界を打ち立て、建設し、飾り付ける場合には、デザイナーは一人にならないと出来ないのだ」と言っています。そのことについては、いろんな議論があるかと思いますが。


(2)古代ギリシャのポリスにおける美と政治

 また、別の著作では、古代ギリシャのポリスにおける美と政治に関連して、次のようなことを述べています。

     
     ペリクレスは「われわれは政治的判断の限界の中で美を愛する」と言っている。ギリシャにおいて、美に対する愛に限界を設けていたのはポリスであり、政治の領域であった。
 

(3)野蛮とは政治的能力の欠如である

 また、続けて次のようなことに言及しています。

     
     野蛮とは文化の欠如や特質などではなく、選択の仕方を心得ていない過剰な洗練、無差別な感受性だったのである。文化とは「人間と世界の物との交通様式」である。美との適切な交わり方、すなわち鑑賞力は政治的能力の一つである。
 
 この(2)(3)について、私は日本の今の都市の状況を念頭に置きながら理解し、共感いたしました。特に「過剰な洗練」「無差別な感受性」なんて、今の日本の都市を象徴している言葉のように思えます。

 日本には、建築単体を作らせたら世界一のレベルの物を作れる人が沢山いるんですよ。しかし、「交わり方を知らない」「そのことが野蛮なんだ」「選択の仕方を心得ていない過剰な洗練、無差別な感受性こそが野蛮なんだ」とハンナ・アレントは強調しています。

 ですから、優れた建築家、優れた芸術家がたくさんいることが文化ではない。その中から、何を選ぶか、その選択の仕方を心得ていることが文化なのです。その行為こそが野蛮と文化を区別するものだ。こういう風にギリシャ人は考えていたし、ハンナ・アレントもそう考えたのです。だから、美との適切な交わり方(すなわち鑑賞力)は、政治的能力だと言及したのです。

 よく日本を訪れた外国人が「日本にはこんなに素晴らしい現代建築がある、歴史的な遺産も沢山ある。なのに、なんで住んでいる町がこんなのなんだ?」と疑問を呈します。それに対する答えの一つが、今述べた「政治的能力の欠如」ということになるのではないでしょうか。どうやって美と付き合って選んでいくか、その能力がないのです。「だから日本は野蛮なのだ」、そのようにハンナ・アレントが言っているように私には理解できるのです。


(4)都市美協議の根拠

 ハンナ・アレントは同時に、カントの美学、「判断力批判」を材料にしながら、次のようなことを述べています。

     
     カントは美も公的性格を持つと考えた。「われわれは同じ喜びを他の人々とも分かち合うことを希望している」がゆえに鑑賞の判断力は公然と議論されるし、鑑賞力は「他のすべての人々の同意を期待している」がゆえに論争の対象になりうる
 
 都市美協議をやろうとするとき、よくアンケート調査にも書かれるのが「美というこんな主観的なことを議論しても仕方がない」「美はそれぞれの好みによる」という主張です。

 しかし、それは違うとカントは言っているんです。カントによると「美とは私的感情の対極にあり、実に公的なもの」なのです。

 誰もが経験すると思うのですが、物の美しさを判断するとき、対象に感動したら他のみんなとその喜びを分かち合いたいです。いい本に巡り会う、いい映画を見る、いい絵を見る…。みんなでその喜びを分かち合いたい、だからその美は公共的なものだ。美しいものに巡り会ったら、他の人にもその同意を期待してしまうものなんだ。だから、美は私的感情ではないとカントは言っているのです。

 これこそ、都市美協議の根拠だと私は思います。協議をすることの意味であり、ベースになっていることだと私は理解しています。


(5)主観性と客観性

     
     政治的判断と同じように美的判断においても、決定がなされる。そして、この決定は、いつも一定の主観性によって、つまり、各人は世界を眺め判断するための自分自身の場所を占めているという単純な事実によって、なされるけれども、同時に、世界そのものが客観的な与件であり、すべての住民に共通する何かであるということにも由来している。
 

(6)いかなるものが世界に現れるべきか

     
     そして、その決定はどのような活動様式がその世界においてとられるべきか、以後世界はどのように見えるか、いかなる種類のものがその世界に現れるべきかにかんするものである。
 
 これは政治的な決定と審美的な判断に関することですね。


(7)誰が何を担うのか

 私なりにハンナ・アレントの思想を要約すると、以下のようなことを言っているように思えます。

     
     「世界の物」は専門家が作るべきであるが、「いかなるものが世界に現れるべきか」については、市民がこれを選ばなければならない。
 
 「市民」についてはいろいろ注釈がいろうかと思いますが、それは後で補足できればと思います。

 つまり、専門家の領域と政治の領域と言いますか、つまり選ぶ側の領域を分けないといけない。今の社会なら市民社会ですから市民が選びますが、江戸時代なら町の旦那衆、貴族社会なら貴族が選ぶ側と言えるでしょう。選ぶ人と作る人は別なのだと言いたいのです。作る人に全てを任せたら危険なのだと、ハンナ・アレントは主張しています。

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