都市空間の回復―思考の軌跡と展望--
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理想を彼方にみる専門家的スタンスからの脱却

 

専門家の主義主張を超えたところに市民の選択がある

 でも結局のところ、ハンナ・アレントの言葉をよくよく考えてみれば、専門家の主義主張を超えたところに市民の選択があるということがわかります。どのスタンスに立っているとしても、彼らに任せていては危ないのです。

 逆に言うと専門家のスタンスは永遠に決着をみることはありえないし、また決着すべきものでもありません。政治が選択していくことが大事なのです。

 ここまでが3番目のテーマでした。でも、このあたりから基本的にいろいろなことが間違っているのではと考えるようになりました。


「見えない都市」という発想が間違い

 例えば私は川西に住んでいて散歩するのが好きです。子供の頃から過ごした横浜は都市化の波に無残にも呑まれてしまいましたが、同じように川西でも、こんなことがあっさりと起こるのかというように、何百年も存在していた木が切られて安っぽい宅地になってしまったりします。

 これだけ環境問題が話題になっているのに、景観に関しては平気で色んなことが起こっている。これは何かおかしいと漠然と感じていたら、はっとあることに気づきしました。そもそも「美的価値の導入」「見えない都市」という発想が間違っていた。環境への関心がこれだけ高まってきたというのに、風景破壊に歯止めがかからないのは、そのためなのです。


「現にあるまち」からの出発

 「現にあるまち」以外の基準(理想基準)は抽象的ならざるを得ず、例えば和風にしなさいとか、せいぜい勾配屋根にしなさいといったように、抽象的なもので、審美的判断にとって有効な基準になりえません。

 絵の判断で明度や彩度がどうこうとか言わないように、そんな基準を作っても審美的判断にはなりません。「美は定義するよりも認識する方が容易である」と昔からよく言われてきましたが、定義できるなら基準が出来るかもしれませんが、そもそもどういった都市が美しいかなど定義はできないのです。「美的価値の導入」という考え方も「見えない都市」という考え方も、「現にあるまち」を基準とすることを念頭においていないのです。風景の悪化に歯止めがかからないのはそのためです。


「現にあるまち」が基準にならなかった理由

 「現にあるまち」が基準にならなかったのは、「開国」を経験した国に共通する現象なのではないでしょうか。文明開化と言ったとたんに、これまでの江戸文明は文明でないと言っているようなものです。しかし3年前くらい前のセミナーでも
「文明開化と風景保存〜日本とブータンの比較から」と題して報告しましたが、最後の開国であるブータンという例外もあります。

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ブータンの様子・伝統的な建物(C)江川直樹
 
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ブータンの様子・新しく作られた建物 (C)江川直樹
 
 これは江川先生からお借りした写真ですが、上はどちらかというとい伝統的なブータンの様子です。一方で下は伝統的なものを基準にしながら新しいものを作り上げている事例です。理想基準ではなく、現にあるまちを基準にしながら、美醜を判断して、まちをつくっているように見えます。


理想基準に頼ってしまった経緯

 一方、日本では現にあるまちは美醜の規準にはなっていません。

 おそらく都市醜という考え方は明治の後半になるまで日本人は持っていなかった感覚だと思います。江戸時代の文献などを読んでも、自分たちが作った結果に対して醜いと思うことはなかったのではないかと思います。文明開化後の明治後半の変化が、大正期の都市美運動に繋がっていったのだと思います。

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東京尾張町之図 芳年 明治2年(出典:小西四郎著「錦絵幕末明治の歴史」講談社、1977) 日本橋白木屋開帳の図、明治30年代(出典:宮尾しげを監修「新選東京名所図会」睦書房、1969)
 
 左は明治初めの絵図で、ほぼ江戸時代の状態を保っていますが、たぶんこれを格別美しくもないかもしれないけれども醜くもないふつうの町だと思っていたのだと思います。

 最初の都市醜としては、明治20年代ころから、「東京市民は蜘蛛の巣の中に居るかと怪しまるる程なり」(東京日日新聞、M23.2.28)と表現されるように、電柱電線について醜いという認識がなされています。

 確かに右の明治30年代の絵をみると、建物は変わっていませんが、電線が存在しています。ですから、先の言説は、開国による急激な変化を前にして、はじめて普通のまちの美的価値に気づいたとも言えます。しかし普通のまちのあるがままの姿が基準となることはありませんでした。たとえば明治40年代初めには、建築雑誌などに市区改正後にできた住宅に対して、「不体裁極まる道路に不体裁なる家屋を乱造して平気で居る、出来上がった処をみると不規則千万にて、何らの統一感もない事は実に見られたものではない」といったものや、「市区改正も宜いが出来上がった家と言ったら不体裁極まるではないか」「過渡期に伴う暗黒時代の好標本で……」という表現もみられます。

 このように不規則千万で見られたものではない、過渡期に伴う暗黒時代という表現が登場するのが明治末から大正にかけてで、これから欧米に影響を受けた都市美運動といったものが盛んになってきたのです。このように、現にあるまちを基準にして、新しい変化の美醜を判断するといった姿勢は生まれませんでした。

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