都市空間の回復―思考の軌跡と展望--
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展望

 

「観想―存在」モデル

 ここに私が授業などでよく使う漢詩があります。

     
     忘裏山我を看る
     閑中我山を看る
     相似て相似ず
     忙は全べて閑に及ばず
 
 これは文天祥という南宋時代の詩人のものです。忙しい時には山が私を見る、逆に暇な時には我が山を見るということです。この詩は佐橋滋さんという方が詩吟で唄われるそうで、松田善幸さんが『現代余暇の社会学』で紹介されており、それをさらに私が使わせていただいています。

 昔、余暇の研究をしていたときに、「活動―空間」モデルと「観想―存在」モデルということを考えました。余暇は活動であるという考え方と、観想であるという考え方が昔からあります。そもそも人間の活動を活動的生活と観想的生活に分ける考えがありました。これはギリシアのアリストテレスの時代からあって、アリストテレスは観想的生活が活動的生活よりも高級だとも言っています。

 暇なときに山を見るのですが、そういう時の山は空間ではなく存在なのです。一方で活動しているときには、山は空間を構成する一つの要素になります。

 これからは高齢社会であり、4月以降私自身も暇になります。そうすると必然的に観想的生活に傾斜していくことになります。こうした「観想―存在」モデルの中で、高齢世代のまちづくりへの取り組みということも何か考えられると思っています。

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同里
 
 この写真は上海近くの同里という古い鎮のものです。水路を中心として何人かの人がいる。この中に、左に缶コーヒーか何かを置いて裸で椅子に座っている人が居ます。私はこの人に注目しました。先ほどの漢詩と照らし合わせてみると、洗濯で忙しいおばさんは忙裏だと言え、彼女にとって樹木や町並みなどは空間であります。しかし、おじいさんにとっては別の関係があります。観想しているので、空間ではなく存在であると言えます。彼は存在そのものに対していると言えます。私もこういう風になるのではないでしょうか。


協議を調停できる人

 「美を判断の基準とする外形の世界の世話と保護を任せることができるほど十分に訓練された精神」の必要性を哲学者のキケロは言っています。ただの市民ではなく、市民の中でも訓練された風景や景観に対する精神を持つことができるのは、時間的ゆとりのある人であり、またただ見るためにのみ見る私心のない人であります。それはひょっとしたら引退したシニア世代の中にこそ見出されるのかもしれません。

 同時にハンナ・アレントの言葉で、「現在においてであれ、過去においてであれ、人びと、物、思想の中から自分の仲間を選ぶ仕方を知っている人、それが文化人(cultivated person)である」というものがあります。人、物、思想など、私も「選び方を知る人」にならなければならないと思います。そこが私の結論かと思います。

 ご清聴ありがとうございます。

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