京都−建築と町並みの遺伝子
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はじめに

 

●そもそもの発端

山本

 山本でございます。先ほど皆さんは京都のまちを散歩されたわけですが、僕の事務所にわざわざおいでいただき、見学していただきました。僕自身『建築家』なのか『町並み文句言い』なのか、よくわからない辺りで仕事をしているわけですが、近頃はむしろカメラマンの方が主力で、写真を写すことがどんどんどんどんうまくなりまして、建築がどんどんどんどん下手になっていくという状況で(笑)、ちょっと戸惑っている現状です。

 僕が京都にやってきたのは、今から約17〜18年ほど前になります。事の始まりはそのずっと前、丹下健三先生や岡本太郎氏の事務所を辞め、さあ関西に帰ってきてどうするかなという時期に遡ります。昭和45〜47年の石油ショックの最中の独立だったものですから、まったく仕事がありません。しょうがないので何か楽しいことをやってみようというのが、そもそもの発端でした。長いこと全国を歩いていませんので、一度地方を歩いて、何かおもしろいモノが見つかれば良いなというようなことで、約2年間、全国行脚をすることに致しました。まさしく、飯を食いっぱぐれた建築家ということです。


●源は全て京都

 色んな所を歩いていますと、「何かどこかで見た感じだな」ということを、感じ始めるようになりました。よくよくみると、京都に全て「源」があるということが分かってきました。格子にしましても、馬や牛を繋いでおく駒寄せ格子戸にしましても、みな京都から取り込まれたもののように思いはじめました。全部京都なんですね。

 ただ地方に行きますと、風の強い所は、格子が太くなっていますし、風の弱いところは細くなっていると。そんなことが分かりました。

 思いますに、かつて地方の方々は都へおいでになって、あらゆる事柄を持って帰られて、京都に負けてたまるかと、自分たちの家をつくっていったわけです。それなら地方行脚ではなくて京都行脚が先やろうと、「京都を徹底的にやってみよう」と思い始めたのが、運のツキです。

 当時は大阪の江坂にアトリエがあったものですから、大阪から京都に行くわけです。陽の光の一番良い時に出会えませんので、やっぱり朝一番、起きがけからシャッターを切るのが一番いいやと思ったら、えいくそっと、京都へアトリエを移してしまいました(大阪の事務所はいい事務所だったんですよ。割合と仕事もありまして、期待もしてもらってたんですけど)。そんなことで、17〜18年過ぎてしまいました。


●日本の建築がおかしい

 その当時から日本の建築がどうもおかしい、いったい日本はどこへいくのかと常日頃思っていたんです。

 磯崎新っていう建築家がいますね。あの人が元凶をつくったんです。あの人がモダニズムを通り越してポストモダンに行ってしまった。外国の潮流に乗っかったのだと思うのですが、わけのわからん建物をぼこぼことお建てになって、それが人気があったものですから、後に続く建築家がポストモダンへどんどん走っていった。それで日本中のまちが滅茶苦茶になったというのが、僕の持論なんです。

 丹下健三先生であるとか、前川國男さん、坂倉準三さんは、確かに新しい日本をつくった人たちなんですが、作風のどこかに日本の味がする。その日本の味を失わずにモダンの方向へ引っ張っていかれました。つまりその方々が磯崎さんよりも一世代上の建築家なのです。何とか日本を守りながら新しい潮流をつくろうという思いで活動なさっていたと思うんです。そこまでは十分に理解ができるのですが、磯崎さんとか黒川紀章さんが出てきてから、日本の建築も建築家達も滅茶苦茶になったと思います。


●京都を写す

 そういう思いが強かったものですから、「やっぱり日本は違う、どうしても京都を知っておかなあかんな」という思いに至ったわけです。今までにだいたい4万5千カットくらい撮りました。実際は約10万カットくらい京都にはあると思うんです。だから、まだ約5万5千〜5万6千カット写さなければなりません。今まで18年かかっていますから、まあ85〜86歳までカメラを持って歩かなあかんのかなと。

 ところがだんだん思うように歩けなくなってきてました。撮影はするんですが、「あの店で飯を食おう」「こっちでなにやらしよう」ということのほうが多くなりました。1日2本ほどしか写せないほどのパワーになっています。


●保つことが京都の発展

 京都について、僕は前から「第三次世界大戦が勃発している」というのを、盛んに雑誌にも本にも書き、揶揄しております。いわゆる「大戦」なんですけれども、爆撃の音がしないんです。ごそごそと京の建築を壊していくんです。そして出来上がっていくモノは、元にあったモノとは、全く違ったモノです。「これは違うやろう」と思うわけです。

 「やっぱり京都は京都でなかったらあかん。日本を支えるのは、なんといっても京都や。その次に産業として支えるのは東京やと。だから京都と東京がおかしくなったら、日本はおかしくなる」という、絶対的な考えが僕にはあります。

 もっとも東京は放っといても集中しますから、どんどん発展していくでしょう。では京都はどうするねんとなりますと、モノをどんどんつくっていくことが発展ではなくて、極端な発言かもしれませんが、今までにあった京都をしっかりと保つということが、京都の発展だとかねがね思っています。


●京都のポテンシャルはインターナショナル

 ドナー、つまり京都にしかない人・モノ・生活の遺伝子は、過去からずっと全国に発信されているんです。もっと極端に言いますと、ブルーノタウトにしろ、コルビジェにしろ、ライトにしろ、京都からたくさんの影響を受けて、それぞれの国で、日本の、京都のエキスを建築の中に入れていっているわけです。京都の持っている本来のポテンシャルは、実にインターナショナルです。

 よく「古い建物でくすんだ街」が京都だと人はおっしゃいますが、シルクロードでずっと大陸文化が伝わってきて、中国を通って、韓国を通って、日本に来たわけです。西洋と東洋のものが全部日本に入ってきているわけです。その最終の昇華地が京都。それ以上、他所へは流れない。後ろは太平洋で、行き場がないわけですから、流れないわけです。だから日本で全てが昇華していく。その昇華の原点が京都であるということで、僕は京都の持つ本来のポテンシャルは、とんでもないものである、まったくのインターナショナルであると思っています。

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