今日は遺伝子の話をしようということで、冊子を皆さん方のお手元にお渡ししてあります。これは僕が描いた漫画ですので、この漫画を少しご説明していこうかと思います。 京のDNA
これは京都の門です。これに入門するのは、ものすごく難しいんです。門は京都の文化の、あるいは京都の景観の基本の基本です。どの家にも玄関があるわけですが、かつての京都は屋敷が多かったものですから、門に関するデータは今もいっぱい残っています。なぜこんな絵にするかと言いますと、こんなふうに、するするするっと描けるんです。普通ならデッサンをしまして、立面図を描いて、やらなあかんのですけど、門というイメージをサッと描けるのが京都です。 この門には勅使門から数奇屋門から唐門から、いっぱいありまして、一言で門と言えないくらいたくさんあります。ですから逆に門に足をつっこむと門に入門しないとわからないくらい、たくさんあります。で、いずれ僕は京都中の門を全部集めて、もう一冊本をつくってみようかなと思っています。
|
これもきばって描かなくても、これで簾が描けてしまうわけです。建築をおやりになっている人、あるいはデザインをやってられる方は、こういうデッサンなりスケッチは皆得意だと思うんですが、それにつけても簡単に描ける。簡単に描けるということは、余計なものがそぎ落とされて、唯一こういう形態を持っていて、それが色んな形で使われているということです。
|
格子です。これは私の孫でも描けます。別に僕が描かなくても、京都に住んでいる小学生の子供たちは、「格子を描いてみろ」といえばたぶんこう描くだろうと思います。ということは、これも徹底的に物事がそぎ落とされて、シンプルに、分かりやすい形で表現されています。
|
次が蔵です。この絵は財産家の象徴みたいなもので、小判がぽっぽっぽっと飛んでいるんですが…。蔵は、京都の商法、あるいは農作物等の収蔵・貯蔵に大きな力をもっています。応仁の乱などで、京都は焼け野原になったわけですが、このような蔵がたくさん残っている。これが京都の一番力強い遺伝子と考えていただいてよいのではないかと思います。 蔵は全国各地にいっぱいあるわけですが、京都の蔵ほどシンプルなものはありません。うだつにしても、瓦のあり様にしても、蔵窓にしても、腰壁にしましても、いずれも機能優先です。守れればよい。本来は富の象徴で、「どうだ見てみろ」の蔵であっていいのですが、京はそうではなく、必要最低限の造りでできています。それぐらいやはりそぎ落としながら蔵というものが出来上がってきたわけです。
|
それからその次の屋根。左側が僕で右側が当時の恋人なんですが、ポニーテールしてたんです(笑)。屋根というのは、子どもの遊び場だったんです。皆さんのお父さん、あるいは僕と同年代の方で、屋根に上ってない人はまずいない。ですから昔は屋根上の恋、屋根の上でのコミュニケーションは楽しいことだったのです。 しかもそれが京都の場合は、道に平行の切妻屋根の連続です。屋根が下がったところから人々は出入り、つまり平入りで入りますから、それがずーっと並びます。極端に言いますと、盗人は通りの裏側を走りますと、表からは絶対に見えません。次はどこを狙おうかなという時は、どの屋根のどの場所に蔵があって、商品があって、お金があってというふうなことを、きちんとターゲットを絞れるわけです。そこで盗人が活躍する。だから恋の語り場でもありますし、盗人の実に愉快な屋根の道というふうに思っていただいたらよいのではないでしょうか。
|
下地窓です。 壁を塗る職人が、多分塗り忘れたんでしょうね。もとはこんなに大きな物ではなかったとは思います。ところが光がそこからすーっと入ってきた。これは使える。しかも風も入ってくる、光も入ってくる。これはいける。 下地ですから竹と葦とかで組み立てられていますから、「これは非常に数奇なもんやな」となったんだと思うんです。下地窓はまったく京都の独壇場です。そこに人がいるかいないかのシグナルにも見えますし、壁のうっとおしいものを粋にはからうという考え方で、それぞれの建主さんや建築をやっていく人たちの間でどんどん発展していったという気がします。ここから太陽の光が入ってくる。室の中に光を落とす。東から西へ、まるで日時計のように。
|
今、京都では景観条例というよく分からない、切口の見えないものが突然施行されたのですが、建築だけが槍玉に挙げられているのです。実は塀が京都の景観を左右する重要なものなんです。特に東山あるいは中京から上の方は、塀建築と思っていただいたらよいと思います。例えば清水の方へ行きますと、二年坂、産寧坂を越えて石塀小路あたりになると、これはもう塀の連続のようなものです。それが町並みをずっとつくっていっている。 今、京都市は塀問題を全く頭のかけらにも置いていないので、デザイン会議の方々は「京都の塀をどうするか」という議論をしてほしい。そうするとたぶん京の都市は「へええ」とびっくりするほどいい町になるだろうと思います(笑)。
|
これも京都の絶対的なものなのですが、注連縄(しめなわ)。ちょうどこれから知の輪くぐりが始まるタイミングなんですが、この注連縄は要するに「ここからこっちは不浄のところ。ここからそっちは清いところ」という、一つの結界です。京都の場合は結界というのが、うまく使われています。そのうちの一つが暖簾でもありますし、それからもう一つが矢来みたいなものです。「ここからは自分たちの領域ですよ」「ここから手前は皆さん、来ていただいて結構ですよ」という家の、人を許すシグナルになります。 つまり注連縄とか犬矢来とか、単なる矢来とかで線を引いているわけです。「許可をもらった者だけが入れるんですよ」という境界線みたいなものを、ここが境界だと言わずに、それをちょっと置いておくことによって、シグナルが送られる。そういうものが、実は京都のまち、かつての家には大概あった。それが少しずつなくなってまいりまして、今、僕は一生懸命それを復活しようとしている最中です。
|
それからバッタリ床几。これはもう皆さんよくご存知だと思いますが、出店ですね。バッタリ床几、南区の上鳥羽のほうはばったん床几とも言います。これは歴史が古くて、しとみ戸(はねあげる窓、ぱたんと閉めると戸がしまる)がピヨンと上って、バッタリ床几がパタンと落ちると、道の出店と家の中の店が一体になる。これは実に機能的と言いますか、風物としてもいいものですね。これも僕は、それぞれの家につくっていこうと思っています。
|
これは先ほどの犬矢来。
|
それからもう一つは忍返し。平入りの家は軒を並べて建っているわけですから、屋根の運動場です。夜な夜な塀を乗り越えて侵入する泥棒さんをどこかで止めなあかんわけです。それで忍返しが出来たわけですけれども、これは金物もあれば竹もあれば、極端に言いますと、釘を塀頭に並べてブスっといくというようなものもあるわけです。 この絵の人は気の毒で、いけると思ったんですが、竹の矢来にブスっと刺さって、血みどろになっている。下のほうに荷車も持ってきているんですけど、あんまり役に立たなかったということです。
|
京都の道幅は4〜5メートルです。その4〜5メートルの右を歩こうが左を歩こうが、例えば看板、格子、犬矢来、そして足元。目線をたどると、下へ15度、上へ35度と、それらがちょうど見えるのが京都の町並みの一番いいところです。つまり情報伝達の角度と思っていただいたらいいと思います。 つまりちょうど50度の範囲が、京都のまちとしては一番大切な要素だと思っております。これを見つけるのに僕は約12〜13年かかりました。あらゆる所であらゆる写真を写して、その角度を取りますと、その範囲の中に、看板もショーウィンドウも何もかもピシャと入っているんです。ですから京都は50度のまちというふうに思っていただくと面白いのではないかと思うんです。 それではちょっと実例で遺伝子の一端を見ていただこうかなと思います。
|