今、建築を学んでいる学生さんはあんまり京都の町並みや建築を見にいかない。みんな東京へモダン建築を見にいくんですね。卒業制作は判で押したようにモダン建築です。
なぜ若い専門家が京都に目を向けないのかというと、京都は次の世代を伺わせるものを作らせないという環境を嗅ぎ取っているのではないでしょうか。だから建築系の学生さんは京都で就職してくれなくて、みんなよその土地へ行ってしまいます。僕の所にアルバイトに来ていた府立大の学生も、京都生まれ京都育ちなのに「京都には勉強するものがない」と言って千葉大の大学院へ行ってしまいました。
今の京都では、設計行為をしたときに京都の面白さを味わう機会がないのです。だから京都の町をよくしようと思う一方で、若い人が根付きたくなる景観を作っていかなければならないと感じています。古いものをそのまま残すことではなく、今の時代の人間としてどう咀嚼してどう次世代に渡すか、それを考えることが一番大事なことだと思います。
今の景観条例をそのまま丸飲みすると、下手をしたら京都の町並みは太秦の映画村のような作り物めいたものになってしまいます。そんなことを考えるよりは、次の時代の京都の町のありようを考える。しかも、歴史を踏まえて京都の町をつくる。それができれば、若者も京都で何かできるかもと、とどまってくれるように思うんです。
町のありようとは建築のありようであり、人のありようでもある。京都で勉強する人はその町の未来も見通して勉強しているでしょうから。
ところで、関東の人たちは逆に京都の町を見たがっている。この間も千葉大の栗生さんが総勢30人ほどでやってきて京都の町を見ていきました。それで思ったんですが、やはり京都はポテンシャルを落としたらダメなんです。ポテンシャルを落とさず、新しい時代性を吸収しながら生きてゆかねばなりません。にもかかわらず各論で押さえようとしている。それではいけない。「俺の京都」「私の京都」をそれぞれに作らせなくてはなりません。そういった意味で今の景観条例、もう一歩踏み込んでやるべきでしょう。 今の京都は、人材を逃している
●「俺の京都」「私の京都」を作りたい
僕は京都景観条例については総論賛成です。京都の何十年後かを考えたら、良いことだろうと思います。だけれども、今の視点で京都を見たらどうか。
最後にこの写真をあげておきます。京都市がどんな条例を作り、どんな指導をしようと、この光景があるかぎり、何をしてもダメです。これを放置したまま、建築の有り様だけに口を出してくるのはホントにおかしい。景観の話をするなら、まずこれを解決してからでしょう。電線・電柱をとりはずし、インフラをしっかりするから建築家も景観に協力してくれというのなら、我われだって反対しません。 ところが、最初に規制ありきのやり方で攻めてくる。そういう姿勢では、せっかく決めた景観条例が何の役にも立たないのではないでしょうか。 行政は行政として都市を作るスタンスを市民に見せろ、そうしたら我われも物をつくる姿勢を見せる。どんな京都になっていくのか、そういう未来図が見えないと、景観条例も絵に描いた餅になってしまう。そういう気がしてしょうがないです。
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