I ベルクと日本――メゾロジーの生成
●ベルク氏の素顔
堅い話を始める前に、写真を少し見て頂きましょう。一連の写真は、昨年パリでベルクさん主宰の国際シンポジウムがあったときに、自宅にお邪魔して撮影したり、近郊を案内してもらった時のものです。
この方が、オギュスタン・ベルク氏です。実は最近、死亡説が流れていて、昨年10月に関西大学の東京セミナーで風景論の講義をしたとき、最初の質問が「ベルクさんは亡くなられたと聞きましたが、まだ生きているのでしょうか」というもので、唖然と致しました。 でもこれには理由がございます。ベルクさんは昨年の三月末に入院した後、5ヶ月間の入院生活の間に二度手術をしているんです。その間、音沙汰がないものですから、てっきりこれは死んだんだと思った人もいたようなんです。8月の末に行われたベルク先生主宰の国際シンポジウムにも、本人はカムバックできていませんでした。その時のタイトルが「生への存在」という意味ありげなものでした。本人にとっては「死への存在」に近いところにいたというわけです。 実はこのタイトルを理解していたのは主宰者のベルクさんだけで、他には誰も理解できていなかったという困った状況の中で、1週間のシンポジウムになってしまったわけですが、それが終わった後、ベルクさんから「自宅に来て欲しい」という連絡があって、この写真はその時のものです。
| ||
ベルクさんのお隣にいらっしゃるのが奥様です。大変明るく気さくな方で、カナダの出身と言うことです。 ちなみにご自宅はパリ近郊のアパートです。風土学の大家はどんな家に住んでいるのだろうという好奇心があったのですが、ベルクさんは「屋敷の論理」を認めていない方でして、庭付き一戸建てに住もうとは思わないんですね。ごく普通のアパートでした。
| ||
これは、その時一緒に行った哲学者仲間とともに、ベルクさん夫妻を囲んでの写真です。
| ||
ベルクさんのご自宅の近郊を散歩した時の写真です。ベルクさんはもともと恰幅のいい方だったんですが、手術後に20キロ体重を落とされ、ちょっとやせておられます。ここは、彼の住んでいるパリ近郊の住宅地です。日本にもざらにありそうな雰囲気で、特にこれといった特徴もありません。
| ||
少し歩くと、こんなふうな森の入口に入っていきます。ベルクさんはいつもこういうところを散歩しておられるようです。ベルクさんがこんなふうに外出されたのは、手術後初めてだとおっしゃっていました。
| ||
これは、公共の集合住宅で、安価に提供されているものです。
| ||
この写真も同じ所です。ベルクさんの今のお住まいとは違うのですが、なぜこれを撮したかと言うと、ベルクさんが「以前はここに住んでいた」とおっしゃったからです。でも、今いる住まいとも、そう変わらないものですね。中層アパートの一角に住まいをお持ちです。 ところで、私は今、ベルク先生と言ったりベルクと呼んでみたり、ややこしい言葉遣いをしています。私にとっては恩師でもありますので、ベルク先生と呼ぶべき立場なのですが、学問上はライバルですので、「ベルク」と呼び捨てにする場合もあります。文脈によって使い分けていることをご理解ください。 さて、ここからはキーワードを使って、話を絞っていきたいと思います。
|
|
これはターナーの作品で、ターナーと言えば西洋の風景画家の代表的な人です。この人は18世紀後半に生まれて、19世紀半ばまで生きております。この絵は「カルタゴを建設するディドーまたはカルタゴ帝国の興隆」という、歴史的な題材にのっとった風景画です。これを描いたのは1815年です。 この絵は、画面の中心に向かって視線が収斂する一点透視になっています。手前の風景は大きくはっきりした構図で色濃く描かれ、遠くに行くほどそれが薄れていくという手法になっています。だから、色彩的な遠近法、構図的な遠近法を存分に表しています。
| ||
|
これも同じ年に描かれた作品で「小川を渡る」というタイトルの自然風景を描いたものです。これは先ほどの絵ほど明快な遠近法にはなっていませんが、やはり画面の一点に視線が集中するように描かれています。ここでは、近景と遠景の違いが非常にはっきりしていて、近景ははっきりとした輪郭で濃い色合い、遠景はぼやーとぼかすような輪郭、色合いです。 ちなみにこの二つは、19世紀前半の絵です。19世紀後半になると、西洋絵画の遠近法は完全に崩れます。ターナーも晩年にはこんなはっきりした遠近法の絵ではなく、遠近がはっきりしない絵を描くようになりました。
| ||
|
この絵はみなさんよくご存知のセザンヌの絵です。見てお分かりのように、この絵に遠近感はあまりありません。それまでの風景画なら遠景と近景ははっきりとした構図、色彩で分けるものなのですが、この画面は遠くも近くもほぼ等しい価値を持ったものとして描かれています。海の色、手前の家や丘、遠景の山の色が対等な面として共存する描き方をしています。 これを見ると、われわれは近景も遠景も区別なく、それぞれに豊かな色合いの世界があるなと感じます。この時代になると、西洋が培ってきた遠近法の世界は崩れていると見てとることができます。それまでのような一点透視の視線はなくなってきているわけで、これは「主体の危機」という言葉でよく言われます。
| ||
|
これがセザンヌの絵で一番有名な「サント・ヴィクトワール山」です。この頃になると、かろうじて山の絵であると分かりますが、遠近が何がなんだか分からない絵になっています。こんなふうに従来の遠近法を乗り越えた絵画が、19世紀後半に登場するようになりました。
| ||
|
これは中国北宋の画家郭煕(かっき)の絵です。この絵は、有名な絵で講談社の『日本の風景・西洋の景観』(講談社現代新書、オギュスタン・ベルク著;篠田勝英訳、1990)に載っていた絵です。日本の絵画ではありませんが、日本の山水画も中国絵画の影響を強く受けています。 この絵の特徴は、どう見ても西洋的な一点透視的なパースペクティブには立っていないことです。高いところを見上げる視線、背後に向かっていく奥行きを持った視線、手前(下の方)の山から遠くを見る視線という三通りの視点が、一つの絵の中で共存しています。中心が三つあると言ってもよいでしょう。 本来、1枚の絵の中に共存しないはずの視点が三つ並んでいる。高遠、深遠、平遠が融合した絵が、中国の山水画です。その思想を取り入れたのが、日本の絵画だと言っていいでしょう。そのあり方は、西洋の絵画とはまるで違っていることがお分かりいただけたと思います。
|
ベルクさんはこの風景の問題を通じて、日本の風土には固有なものの見方があり、ヨーロッパや他の地域の見方とは違うのだという事実を認めます。このことは「文化相対主義」という言葉でよく言われますね。それぞれの地域にそれぞれのものの見方や考え方が成り立つのだから、それぞれがそれぞれを認め合うことが大切だという、そういう相対主義ですね。こうして比較文化論というアプローチから、相対主義という立場が生まれてくるのです。
しかし、ベルクさんはこういう言葉も使っています。「風景は、風土の感覚的かつ象徴的次元である」と言っていて、これは風土に生きている限り、人間が実際にものを見たり言葉で表現したりするときに、その風景が現れてくるということです。つまり、風景は人間経験のあらゆる次元に関係するということです。
しかし、そうするとベルクが日本にやってきて、それまで経験してきた西洋とは違う見方を知って脱中心化した、という話ではすまなくなってくるのです。なぜなら、風景は結局眺められる対象、事物の成立というよりも、その主体が感覚知覚を通じて全身体的に世界と関わる、その関係性であると考えなければならないからです。まさに、環境との関係が問われてくるのですね。
環境との関係そのものが風景に現れるのだとすれば、自分の知っている風景、なじんでいる風景とは違う他の風景を受け入れることができるのかということが問われてくるのです。文化の型はたくさんありますが、普通は自分が生きてきた型に対して特別の愛着を抱くものではないでしょうか。そこに〈脱中心化〉と並ぶもうひとつのキーワード、〈再中心化〉への過程が成立するのです。
さて、ベルク先生は単なる風景ではなく、彼が慣れ親しんだ都市の風景、都市景観において、一種の再中心化を果たすということになると思われます。それはどういうことか。それが、次に述べる「再中心化〜都市への視線」という話題になります。
景観の専門家のみなさんはすぐお分かりでしょうが、これはパリのオペラ座に至る大通りです。左右の建物のスカイラインがそろっていることが分かります。 これはベルクが都市景観の一番規範的なあり方として取り上げている例です。ベルクの著書『日本の風景、西洋の景観』の中にも、オペラ座の前の大通りのことが出てきます。 こういう景色を意識的に作り上げてきたのが近代のヨーロッパであり、その伝統を現在の都市行政の中で守っています。ベルクさんも誇りに思っている光景です。
| ||
これはちょうど、オペラ座の反対方向をみた光景です。景観はまったく崩れていません。
| ||
ここはパリの中心部にあるレンヌ通りです。ここも均整の取れたヨーロッパの町並みなのですが、ただ向こうに見えるモンパルナス・タワーが邪魔です。パリ市民はみんな、このタワーを引っこ抜きたいと言っていますが、これがあることで歴史的景観の調和は破られています。しかし、こういう景観はヨーロッパでは例外的ではないかと思います。
| ||
これは本題とは関係ないのですが、6年前パリにいたとき、ここのアパートに住んでいました。メインストリートとは全然違うたたずまいでして、ヒューマンスケールな路地の石畳で、230年前の建物に住んでいました。そういう建物がまだ残っているんですね。 アパートの向い側には映画館がありましたが、一度も入ったことがありませんでした。勉学に励んでいました。ここのガランド街57番地という地名は、今も忘れません。
| ||
ここは、私がパリで一番好きなリュクサンブール公園です。ここは、今でもフランスの国会に当たる上院が開かれるところです。衛兵がものものしく見張っています。
| ||
同じくリュクサンブール公園です。町並みは建物で構成されますが、公園は樹木の並木で構成されています。ここでも徹底的に角刈りの形にされて、一点透視の構図になっています。幾何学的なフランス式庭園のあり方です。
| ||
ここはパリで私が定宿にしているホテルのある所で、とてもにぎわいのある街です。こういうのもパリのいいところかな、と思います。
| ||
ここは誰が見てもセーヌ川と分かるでしょう。淀川だと思う人はいないと思いますが、ご参考までに、写真中央の島は、大阪で言えば中之島にあたるシテ島です。ここは、そこへ行く入口あたりの風景です。
| ||
ノートルダム大聖堂です。1100年代に作られたそうですが、このような古い建物がセーヌ川岸に点在して、歴史的景観を残しています。
| ||
さてこの写真から、なんなく風景が変わったことにお気づきでしょうか。こういう言い方をすると間違える人はいないでしょうが、東京駅ではありませんよ。大阪の中之島公会堂です。
| ||
私にはセーヌ川の風景と大阪・中之島の風景が、とても重なって見えるんです。初めてシテ島を眺めた時は、「あ、これは中之島と同じだ」と思わずつぶやいた記憶があります。ある意味、シテ島と中之島はとても近い光景で、中之島の方がどちらかと言えば大阪らしくない。ベルクの言う「無秩序な都市計画」とはとても思えない光景です。
| ||
ところが中之島からちょっと離れて、茶屋町の方に行くと、電線が蜘蛛の巣状になっていて、向こう側には茶屋町アプローズがそびえ立ち、手前にはゴチャゴチャした家が建ち並び、いわゆる「大阪らしい」風景になっています。
| ||
この写真は私のお気に入りで、大事にしている写真です。手前には仕舞た屋風の建物が並ぶ前近代、向こうには超近代のビルがあります。つまり、一枚の写真の中に、前近代と超近代がコラージュされている風景なんです。おそらく、ベルクさんはこんな風景は許せないでしょうね。ただ、この光景は10年以上前のもので、今は存在しないことを申し上げておきます。
|
ただ、ここで申し上げておきたいことは、ベルクは日本とヨーロッパをつき合わせてみて、自分のいた中心に戻っていったということだけではありません。ベルクがいつも発想しているのは、日本の問題と同時に現在の日本のあり方を左右しているアメリカのことです。これが関係してくるんですね。彼の批判は、日本の都市計画や都市政策に向けられたものであると同時に、それを支配しているアメリカニズムに対する批判でもあるのです。
さらに言えば、日本とアメリカだけが問題なのではなく、自身が属するヨーロッパもアメリカニズムの影響で、危機的状況にあるという意識があります。そうなりますと、日本とヨーロッパだけでなく、アメリカの存在を合わせた三極構造の問題になります。アメリカ・日本・ヨーロッパという世界の三極構造の中で、互いに照らし合わせる、その中で彼は、やはりギリシア・ローマにさかのぼる伝統的なヨーロッパに自分の立ち位置を定めているんだと、私は考えます。
これが私の考える「再中心化」ということであります。「再中心化」をもう一度言葉で確認すると、「これまで生きてきた世界からいったん外に出た自己が、自己相対化を経て自己を取り戻すこと。自己相対化に続く自己確認の手続き」というふうに規定されると思います。
今日はベルク風土学とはいかなるものかを、彼の持論を詳細にわたって紹介することはとてもできませんので、そういう形で彼の「風土学(メゾロジー)」ができ上がっていったのだ、という経緯だけご説明しました。さて、ここからは和辻についてです。