ベルク風土論の日本的展開
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I ベルクと日本――メゾロジーの生成

 

●ベルク氏の素顔

 堅い話を始める前に、写真を少し見て頂きましょう。一連の写真は、昨年パリでベルクさん主宰の国際シンポジウムがあったときに、自宅にお邪魔して撮影したり、近郊を案内してもらった時のものです。

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 この方が、オギュスタン・ベルク氏です。実は最近、死亡説が流れていて、昨年10月に関西大学の東京セミナーで風景論の講義をしたとき、最初の質問が「ベルクさんは亡くなられたと聞きましたが、まだ生きているのでしょうか」というもので、唖然と致しました。

 でもこれには理由がございます。ベルクさんは昨年の三月末に入院した後、5ヶ月間の入院生活の間に二度手術をしているんです。その間、音沙汰がないものですから、てっきりこれは死んだんだと思った人もいたようなんです。8月の末に行われたベルク先生主宰の国際シンポジウムにも、本人はカムバックできていませんでした。その時のタイトルが「生への存在」という意味ありげなものでした。本人にとっては「死への存在」に近いところにいたというわけです。

 実はこのタイトルを理解していたのは主宰者のベルクさんだけで、他には誰も理解できていなかったという困った状況の中で、1週間のシンポジウムになってしまったわけですが、それが終わった後、ベルクさんから「自宅に来て欲しい」という連絡があって、この写真はその時のものです。

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 ベルクさんのお隣にいらっしゃるのが奥様です。大変明るく気さくな方で、カナダの出身と言うことです。

 ちなみにご自宅はパリ近郊のアパートです。風土学の大家はどんな家に住んでいるのだろうという好奇心があったのですが、ベルクさんは「屋敷の論理」を認めていない方でして、庭付き一戸建てに住もうとは思わないんですね。ごく普通のアパートでした。

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 これは、その時一緒に行った哲学者仲間とともに、ベルクさん夫妻を囲んでの写真です。

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 ベルクさんのご自宅の近郊を散歩した時の写真です。ベルクさんはもともと恰幅のいい方だったんですが、手術後に20キロ体重を落とされ、ちょっとやせておられます。ここは、彼の住んでいるパリ近郊の住宅地です。日本にもざらにありそうな雰囲気で、特にこれといった特徴もありません。

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 少し歩くと、こんなふうな森の入口に入っていきます。ベルクさんはいつもこういうところを散歩しておられるようです。ベルクさんがこんなふうに外出されたのは、手術後初めてだとおっしゃっていました。

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 これは、公共の集合住宅で、安価に提供されているものです。

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 この写真も同じ所です。ベルクさんの今のお住まいとは違うのですが、なぜこれを撮したかと言うと、ベルクさんが「以前はここに住んでいた」とおっしゃったからです。でも、今いる住まいとも、そう変わらないものですね。中層アパートの一角に住まいをお持ちです。

 ところで、私は今、ベルク先生と言ったりベルクと呼んでみたり、ややこしい言葉遣いをしています。私にとっては恩師でもありますので、ベルク先生と呼ぶべき立場なのですが、学問上はライバルですので、「ベルク」と呼び捨てにする場合もあります。文脈によって使い分けていることをご理解ください。

 さて、ここからはキーワードを使って、話を絞っていきたいと思います。


●脱中心化〜文化相対主義へ

和辻哲郎『風土』との出会い
 そもそもベルクにとって、日本にやってきて日本の風土を経験することは、どんな意味があったのか。ベルクはご存知のように、風景の問題について本を何冊も書いておりますし、風景と風土の問題を結びつけた学者として知られています。彼が風景の問題に向き合うようになったきっかけは、日本という異文化との出会いにあります。日本と出会うということは、彼にとってはメゾロジーの構想を育む機会になったのです。そして、そのヒントを与えたのが、先ほど申しましたように和辻哲郎の『風土』だったのです。

 しかし、ベルクはただ単に和辻の『風土』を読んで、風土学を考えたという単純なものではありません。むしろ、ベルクにとって重要だったのは、日本というフランスあるいはヨーロッパとは全く異なる風土に足を踏み入れる経験だったのです。もし、こういうことがなければ、和辻の『風土』を読んで考えるということもなかったかもしれません。

 ベルクのように自分が今生きている環境とは違った風土に身を置く行為、別の言い方をすると自分のいる中心から出て行くこと、この手続きを私は「脱中心化」と名付けたいと思います。もちろん、ここで言う中心とは、ベルクがいたフランスあるいはヨーロッパのことだと考えて頂いてよろしいでしょう。そこを出ることで、ベルクは日本と出会ったのです。

 脱中心化とは、それまで自己の中心であった世界から外に出ること、それによって自己の生き方を相対化すること、「自己相対化」の手続きである、私はそう考えたいと思います。

 このような脱中心化は、どこの誰でもができることではないんですね。外国に行かれた体験のある方ならご存知だと思いますが、例えばフランスでもイギリスでもドイツでも、ヨーロッパの文化的な中心の国に行くと、彼の国の人びとは日本のことなどほとんど知らないし、知らないからといってどうと言うこともない。フランスなんてある意味、中華思想的な国ですから、自分たちが世界一と思っている節があり、そこから見ると日本は世界の辺境です。ですから、彼らがそうした周辺世界に入っていくことは、大きな転換、つまり「脱中心化」を意味することになるんです。

 ベルク先生が4年前に日文研に来たときに、彼は「辺留久」という日本語の名詞をお持ちでした。私は、この名前を「辺境に留まること久し」と読み、ベルクさんは自分が辺境を拠点にして研究をしているという自覚をお持ちなのかと思いました。

 ただ、これも面白いエピソードですが、ベルクさんが最初に研究をしたいと思ったのは、日本ではなく中国だったそうです。中国の西域に行って中国の辺境文化を研究したいと思ったのが、1960年代の後半で、それはちょうど中国で文化大革命の時代だったんです。紅衛兵が全土で暴れている時代に中国に行くとスパイだと思われる危険があったので、中国を断念し、ちょっと足を伸ばして日本へやってきた、といういきさつだったようです。なんだ、いいかげんだなと思われるかもしれませんが、学問との出会いとはそういうもんなんです。

風土の問題(北海道の稲作)との遭遇
 そして、ベルクさんは日本に目を向けて研究するようになったのです。では、日本に来たベルクは何を研究したのか。ご存知の方も多いでしょうが、彼が拠点にしたのは北海道です。北海道の開拓史をテーマとした調査研究をいたしまして、これによって国家博士の学位を得ることになるのです。

 彼の研究内容を少し紹介いたします。明治時代に北海道の開拓が本格的に進められるようになったとき、政府はお雇い外国人と呼ばれる顧問をたくさん雇い、北海道でどんな産業をすればいいかを尋ねたんです。北海道は亜寒帯ですから、当然彼らは北欧型の農業、つまり酪農や小麦栽培など北の土地に適した農業を大規模にやるのがいいと薦めます。

 しかし、北海道に入植した農民は、彼らが薦めたものには心を向けず、米作りをやろうとしたのです。今でこそ、北海道の米生産は全国一位ということになっておりますが、当時は熱帯原産の稲は北海道ではとうてい育つはずがないものでした。ですから、農民たちは米作りに関しては並々ならぬ努力を重ねて品種改良をし、冷たい水を温めて田んぼに流すとか、はななだ効率の悪いことをやってきました。普通に考えたら、全くその風土に適さないことを一生懸命やってきた結果、現在見られるような米の大生産地になったわけです。

 ベルクは、まずこのことに目を向け、なぜそういうことになったのかを考えました。そしてその背景に、日本人と米との歴史的な深い絆が潜んでいることに気づいたのです。それは、入植した農民の「死ぬまでに米を腹いっぱい食べたい」という言葉があったからで、米作りに励む農民がその米を食べられない歴史的背景があるということです。北海道に入植した農民が何よりも望んだのは米を好きなだけ食うことであり、こういう歴史的・文化的背景を抜きにして、ただ北海道は米作りに適さない風土だという捉え方では、その国の風土を何も理解したことにならない。こういうことに、ベルクさんは気がついたのです。

 ベルクさんの言葉で言うと、「風土とは単なる自然環境のことではない。人間が作り出す環境との関係そのものである」。環境との関係とは、当然、人間がその中に入っているということですね。人間と対立する自然ではなくて、人間が自ら環境に働きかけて自然と一体になって作り出す関係が、風土だというわけです。こういうことを、ベルクは若き日の論文制作の過程で知ることになったのです。

 しかしまだその時は、メゾロジーという考え方までは行きません。ベルクが日本という風土に接して、北海道の稲作という問題とぶつかった。そこから彼は、では日本とはどういう所なのかという問題に入っていったのです。彼の専門は文化地理学ですから、日本文化の特徴は何なのかを考えていくのです。

日本文化の型(母型)の発見
 ベルクが日本で最初に発表した著作は、『空間の日本文化』(宮原信訳、筑摩書房、1985年)でした。ベルクはまず、日本文化における空間の意識を焦点としてとらえ、それを生みだす日本の風土というものに関心を向けていきます。日本の空間はどういうものなのか、そしてその空間を生み出す日本の風土とは何か。その研究の結果が、次の『風土の日本−自然と文化の通態』(篠田勝英訳、筑摩書房、1988年)という本になっていくのですね。

 これらの著作でベルクが問題にしたのは、日本特有の「型」ということです。西洋文化にはない、日本にしかない型は何かということを考えています。私は、これを日本文化の型(母型)の発見として捉えたいと思います。

 日本特有の型を説明すると、「主体よりもそれがある場所を優先する場所中心主義」だということで、さらにそれは主体の視点が中心からずれる「多中心的」な見方に通じます。

 これだけでは何のことだか分からないでしょうから、ベルクの著作から一部引いて説明致します。

     
     「日本語では、主語なしの形式が充分に可能である。フランス語では、主体が非人称的なものであっても、形の上では明示される。Il fait froid.(訳注 = 天候について、周囲などが・・・寒い)と、J'ai froid.(訳注 = 自分の感覚として・・・寒い)は同じことではない。日本語では、どちらの場合も「寒い」である。そしてこうした日本語の文章では、寒さの感覚を持っている主体を決めることはできない。寒さは大気中にも、また、それを感じる人間の中にも、同時にあり、この文章の情景全体に浸透していると言えよう」(オギュスタン・ベルク『空間の日本文化』宮原信訳、ちくま学芸文庫、1994年、32頁)。
 
 このようにベルクは言葉の問題から、日本文化の特色を考えていきました。日本語が主語なしでも通用することは、われわれにとっては何ら不思議なことではないのですが、フランス人にとっては十分すぎるほどケッタイな話なのです。欧米では、まず「私が寒い」のか「周囲が寒い」のか主体が明らかでないと、文章の意味が成立しないのです。つまり、欧米では主体が中心になって物事を行うという形でしか、言葉は使われないのです。

 だけど、日本人は「私は寒い」とか「天候が寒い」なんて言い方は普通しません。ただ「寒いですね」と主語なしで言うのが当たり前なんです。その時、寒いということが該当する主体は、私でもありあなたでもある、あるいはその場全体でもある。ベルクの言葉で言えば「文章の情景全体」に寒さが浸透していて、主語を決めるべきではないのです。主体よりも場所の方が重要というのはこういうことで、彼はこれを「場所中心主義」という言葉で説明しました。

 もうひとつ、別の例をあげます。これも『空間の日本文化』の中に出てくるエピソードですが、戦時中に空襲が迫った危険な状態の中で、若い医師が看護婦に向かって「危ないから君は逃げなさい」と言うんですね。そしたら、その看護婦は医師の方を見ずに、一言「好きです」と言ったのです。

 フランス人はこの表現を見て、誰が誰を好きなのかと悩んでしまう。日本人ならこの感覚は分かるでしょう。もちろん、看護婦がその若い医師を好きで、「だから私はここを離れません」という意志表現になるのです。こういう表現が成り立つことに、ベルクはびっくりしてしまうのです。ベルクにとっては、まさに不思議の国にやってきたという体験でして、十分に「脱中心化」するきっかけになっただろうと思われます。

もうひとつのキーワード「風景」
 これらのエピソードは、「場所中心主義」を説明するときによく取り上げられる例だと思いますが、一方私は、キーワードとして「風景」についてお話ししたいと思っております。ベルクが風景について深く考えるようになるのは、今説明した日本文化独特の型、つまり場所中心主義の型に接することによってであります。

 主体の場所依存的なあり方というのは、人間がものを見る視線に現れた知覚の図式(型)ということで明らかになります。ご存知のように西洋の風景はルネッサンス以降に発展しました。遠近法的な空間構成によって、風景を表現すると同時に、その風景を外から捉える主体という位置も表せるようになったのです。普通、主体は画面の外にいて、そこから風景、景観を見る。それはひとつのパースペクティブになって遠近法的な構図にならざるを得ない。こういうことをやってきたのが、西洋の近代絵画です。

 しかし、ベルクが見たところ、日本の風景表現は西洋とは全く違う。主体の視点が中心からずれる、多中心的なあり方と彼は表現しています。その違いを理解していただくために、西洋と東洋の風景画を見て頂こうと思います。

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ターナーの風景画
 
 これはターナーの作品で、ターナーと言えば西洋の風景画家の代表的な人です。この人は18世紀後半に生まれて、19世紀半ばまで生きております。この絵は「カルタゴを建設するディドーまたはカルタゴ帝国の興隆」という、歴史的な題材にのっとった風景画です。これを描いたのは1815年です。

 この絵は、画面の中心に向かって視線が収斂する一点透視になっています。手前の風景は大きくはっきりした構図で色濃く描かれ、遠くに行くほどそれが薄れていくという手法になっています。だから、色彩的な遠近法、構図的な遠近法を存分に表しています。

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ターナーの風景画
 
 これも同じ年に描かれた作品で「小川を渡る」というタイトルの自然風景を描いたものです。これは先ほどの絵ほど明快な遠近法にはなっていませんが、やはり画面の一点に視線が集中するように描かれています。ここでは、近景と遠景の違いが非常にはっきりしていて、近景ははっきりとした輪郭で濃い色合い、遠景はぼやーとぼかすような輪郭、色合いです。

 ちなみにこの二つは、19世紀前半の絵です。19世紀後半になると、西洋絵画の遠近法は完全に崩れます。ターナーも晩年にはこんなはっきりした遠近法の絵ではなく、遠近がはっきりしない絵を描くようになりました。

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遠近感を失いはじめたセザンヌの風景画
 
 この絵はみなさんよくご存知のセザンヌの絵です。見てお分かりのように、この絵に遠近感はあまりありません。それまでの風景画なら遠景と近景ははっきりとした構図、色彩で分けるものなのですが、この画面は遠くも近くもほぼ等しい価値を持ったものとして描かれています。海の色、手前の家や丘、遠景の山の色が対等な面として共存する描き方をしています。

 これを見ると、われわれは近景も遠景も区別なく、それぞれに豊かな色合いの世界があるなと感じます。この時代になると、西洋が培ってきた遠近法の世界は崩れていると見てとることができます。それまでのような一点透視の視線はなくなってきているわけで、これは「主体の危機」という言葉でよく言われます。

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遠近感がないセザンヌの風景画
 
 これがセザンヌの絵で一番有名な「サント・ヴィクトワール山」です。この頃になると、かろうじて山の絵であると分かりますが、遠近が何がなんだか分からない絵になっています。こんなふうに従来の遠近法を乗り越えた絵画が、19世紀後半に登場するようになりました。

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遠近感と無縁の中国の風景画
 
 これは中国北宋の画家郭煕(かっき)の絵です。この絵は、有名な絵で講談社の『日本の風景・西洋の景観』(講談社現代新書、オギュスタン・ベルク著;篠田勝英訳、1990)に載っていた絵です。日本の絵画ではありませんが、日本の山水画も中国絵画の影響を強く受けています。

 この絵の特徴は、どう見ても西洋的な一点透視的なパースペクティブには立っていないことです。高いところを見上げる視線、背後に向かっていく奥行きを持った視線、手前(下の方)の山から遠くを見る視線という三通りの視点が、一つの絵の中で共存しています。中心が三つあると言ってもよいでしょう。

 本来、1枚の絵の中に共存しないはずの視点が三つ並んでいる。高遠、深遠、平遠が融合した絵が、中国の山水画です。その思想を取り入れたのが、日本の絵画だと言っていいでしょう。そのあり方は、西洋の絵画とはまるで違っていることがお分かりいただけたと思います。

〈脱中心化〉による自己相対化(文化相対主義)へ
 私はこうして風景を例に取り上げましたが、美術館で見ている限りは、「ああ、変わっているなあ」「自分たちの風景画と違うなあ、珍しいなあ」で終わるのですが、問題は風景は美術館だけにあるのではなく、日常生活の中でも見るものだということです。われわれが日々生きている中に風景があるのです。

 ベルクさんはこの風景の問題を通じて、日本の風土には固有なものの見方があり、ヨーロッパや他の地域の見方とは違うのだという事実を認めます。このことは「文化相対主義」という言葉でよく言われますね。それぞれの地域にそれぞれのものの見方や考え方が成り立つのだから、それぞれがそれぞれを認め合うことが大切だという、そういう相対主義ですね。こうして比較文化論というアプローチから、相対主義という立場が生まれてくるのです。

 しかし、ベルクさんはこういう言葉も使っています。「風景は、風土の感覚的かつ象徴的次元である」と言っていて、これは風土に生きている限り、人間が実際にものを見たり言葉で表現したりするときに、その風景が現れてくるということです。つまり、風景は人間経験のあらゆる次元に関係するということです。

 しかし、そうするとベルクが日本にやってきて、それまで経験してきた西洋とは違う見方を知って脱中心化した、という話ではすまなくなってくるのです。なぜなら、風景は結局眺められる対象、事物の成立というよりも、その主体が感覚知覚を通じて全身体的に世界と関わる、その関係性であると考えなければならないからです。まさに、環境との関係が問われてくるのですね。

 環境との関係そのものが風景に現れるのだとすれば、自分の知っている風景、なじんでいる風景とは違う他の風景を受け入れることができるのかということが問われてくるのです。文化の型はたくさんありますが、普通は自分が生きてきた型に対して特別の愛着を抱くものではないでしょうか。そこに〈脱中心化〉と並ぶもうひとつのキーワード、〈再中心化〉への過程が成立するのです。

 さて、ベルク先生は単なる風景ではなく、彼が慣れ親しんだ都市の風景、都市景観において、一種の再中心化を果たすということになると思われます。それはどういうことか。それが、次に述べる「再中心化〜都市への視線」という話題になります。


●2。再中心化〜都市への視線

ヨーロッパの都市性〜「都市構造」と「都市共同体」の統一
 ヨーロッパの都市性は、都市構造と都市共同体の統一から成立しています。つまり、都市とは何かと問われたときに、ヨーロッパではまず物理的な構造として、建築や都市計画などのハードウエアで作られるという特徴がまずあげられます。英語で言うtownですね。そして、もうひとつの特徴として、都市に住みついた人間の共同体があります。これは、ギリシャ語のpolisという言葉でよく表現されます。近代語ではcityですね。

 ですから、cityとしての精神的な共同体とtownとしての物理的な実体の両方が存在することが、都市の本質であるということです。ベルクの言葉で言うと、この二つのうちのどちらかではなく、この二つが一つになって互いに結びついたものが都市で、「通態」という言葉がよく使われています。こうした物理的なものと精神的なものが統一されているのが西洋の都市であり、それは古代ギリシャ以来ずっとヨーロッパに根付いた伝統です。

日本の都市性〜社会的な形と空間的な形の乖離
 これに対し、他の地域ではヨーロッパ的都市に対応できる存在がほとんど見られません。日本はどうかと言うと、近世以降の都市の中に、都市構造と共同体とがマッチした形のものが、京都とか堺に一部見られます。しかしながら、それは例外的な存在です。ベルクさんが批判的に見ることの多い北米の都市にもあまり見られない。要するに、都市構造と共同体が統一されているのは、古代から近代までを貫くヨーロッパの都市の伝統なんです。

 そうした都市の本質というものは、どういうところで見てとれるか。実はそれが都市景観です。都市景観の中に、物理的な実体としての都市が現れると同時に、社会を支えている市民的な意識(エートス)が結びつく形で現れてきます。それを物語る典型が町並みです。ヨーロッパの町並みは、単に建築物の配列ではなく共同体の秩序が形になったものだと考えられます。

 申すまでもなく、パリを始め伝統的なヨーロッパの都市は、街路に面した建物が横に連結されています。互いにくっつき合うことで、ひとつのまとまった景観を構成しています。これには当然ながら構造上、力学上の理由があるわけでして、建物の共有壁によって支え合う特色を持った町並みになっているのです。それに対して、日本建築は床の建築であって、独立家屋の景観となっている。

 別の言い方をすると、西洋の町並みは外から眺めるものであるのに対し、日本の都市は内側から眺める景観を重んじるということが言えるでしょう。

 これは、ただ単に構造的な違いでそうなったと言うよりは、そこに住む人間の意識の違いを物語るものでしょう。都市において人間が求めているものの意味の違いが重要なんです。

 この点について、日本とヨーロッパの都市の間に本質的なギャップがあるということを、ベルクさんは主張しています。ここでまた、ベルクさんの著作から引用いたします。

     
     「日本の美学は、非対称、未完成、非均等、さらには不調和…を愛好する。伝統的芸能、芸道では、それはある場所、ある瞬間の唯一性をとりわけ強調してきた。但しその場合、安定した母型(「かた」)が、個々の移ろう形(「かたち」)の総体を別の次元で統一する。例えば、茶道では、出会いの一回性が、微妙な変奏のおかげで、作法が安定しているために、かえって引き立つことになる。しかし、都市と都市共同体=シテの分離にあっては、建物個々の形による、場所と瞬間の賞揚は、ただ無秩序にいきつくだけである。/こうして私たちは、一見して明らかな、次のような逆説に突き当たる。地球上で、規律正しいことでは有数な社会の一つが、こと都市の形に関する限りは、これ以上ないほどの規律の欠如を発揮しているのだ」(ベルク『都市の日本――所作から共同体へ』宮原信・荒木亨訳、筑摩書房、1996年、107頁)。
 
 この本を書いた頃、ベルクさんは日本のあり方に十分な理解を持っていて、その上で日本の都市の批判をしていました。「地球上で規律正しいことでは有数な社会なのに、都市の形に関してはこれ以上ないほどの規律の欠如」とは、かなり痛烈な批判です。しかし、お気づきのように、ただ日本の悪口を言うというより、「地球上で規律正しいことでは有数」とかなり持ち上げもしている。日本がいくら物騒になってきたといっても、都市犯罪の多さでは、ニューヨークなどの都市に比べたらまだしれているわけです。そういう安全な社会なのに、どうして外に現れる都市の形がこれほど無秩序なのか、と言っているのです。

 つまり、彼が言いたいのは、社会の持つ形とそれをビジュアルに表現する空間的な形が不一致だということです。それに比べて、西洋の都市はもともとその社会の形(人間の意識)と空間の形が調和しているんです。

 また、ベルクは日本の都市について、こういう見方もしています。

     
     「日本の都市性は時間の中の形を強調し、フランスの都市性は空間の中の形を強調する。(ベルク『都市のコスモロジー―日・米・欧都市比較』篠田勝英訳、講談社現代新書、1993年、54頁)
 
 日本は、時間の中の秩序を重んじる。例えば、一年のうちで何日間はお祭りのための都市となり、春になったら何かを始める。そういう時間の中で展開する秩序を重んじる社会で、それにみんなが従っている限り、社会は乱れることはない。しかし、そうした社会は外から見られる景観には注意を向けず、視覚的混乱そのものの都市景観が放置されている。なぜそういう状況を改善しようとしないのか、とベルクさんは問いかけております。

 

西洋の都市景観と日本の都市景観
 では、ベルクさんは日本についてどういう都市景観のあり方を想定していたのでしょうか。ここでお名前を挙げて恐縮ですが、実はこの点に関しては、ベルクさんは鳴海先生の書かれた著書から引用しています。鳴海先生の『景観からのまちづくり』という著書から、武家屋敷型と下町・町家型という区分を引いて、ベルクさんはこのように述べています。

     
     「かつての都市家屋(町家、長屋のことですね)の適応不能と、都市中心部を人気のない砂漠と化し、郊外を耐え難い距離にまで延ばしてしまう「屋敷」の非都市的論理の間に挟まれた日本は、遅かれ早かれ、私たちの時代の町家の発明という仕事に取りかからねばならないはずである」(『都市の日本』103頁)。
 
 こういう言い方で、ベルクは日本の都市景観上の課題をはっきり確認していると言ってよいでしょう。しかしながら、ベルク自身の都市景観の準拠枠はあくまでも西洋的な都市でないかと思われます。

 では、ここでも都市景観について写真を見ていこうと思います。

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 景観の専門家のみなさんはすぐお分かりでしょうが、これはパリのオペラ座に至る大通りです。左右の建物のスカイラインがそろっていることが分かります。

 これはベルクが都市景観の一番規範的なあり方として取り上げている例です。ベルクの著書『日本の風景、西洋の景観』の中にも、オペラ座の前の大通りのことが出てきます。

 こういう景色を意識的に作り上げてきたのが近代のヨーロッパであり、その伝統を現在の都市行政の中で守っています。ベルクさんも誇りに思っている光景です。

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 これはちょうど、オペラ座の反対方向をみた光景です。景観はまったく崩れていません。

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 ここはパリの中心部にあるレンヌ通りです。ここも均整の取れたヨーロッパの町並みなのですが、ただ向こうに見えるモンパルナス・タワーが邪魔です。パリ市民はみんな、このタワーを引っこ抜きたいと言っていますが、これがあることで歴史的景観の調和は破られています。しかし、こういう景観はヨーロッパでは例外的ではないかと思います。

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 これは本題とは関係ないのですが、6年前パリにいたとき、ここのアパートに住んでいました。メインストリートとは全然違うたたずまいでして、ヒューマンスケールな路地の石畳で、230年前の建物に住んでいました。そういう建物がまだ残っているんですね。

 アパートの向い側には映画館がありましたが、一度も入ったことがありませんでした。勉学に励んでいました。ここのガランド街57番地という地名は、今も忘れません。

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 ここは、私がパリで一番好きなリュクサンブール公園です。ここは、今でもフランスの国会に当たる上院が開かれるところです。衛兵がものものしく見張っています。

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 同じくリュクサンブール公園です。町並みは建物で構成されますが、公園は樹木の並木で構成されています。ここでも徹底的に角刈りの形にされて、一点透視の構図になっています。幾何学的なフランス式庭園のあり方です。

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 ここはパリで私が定宿にしているホテルのある所で、とてもにぎわいのある街です。こういうのもパリのいいところかな、と思います。

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 ここは誰が見てもセーヌ川と分かるでしょう。淀川だと思う人はいないと思いますが、ご参考までに、写真中央の島は、大阪で言えば中之島にあたるシテ島です。ここは、そこへ行く入口あたりの風景です。

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 ノートルダム大聖堂です。1100年代に作られたそうですが、このような古い建物がセーヌ川岸に点在して、歴史的景観を残しています。

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 さてこの写真から、なんなく風景が変わったことにお気づきでしょうか。こういう言い方をすると間違える人はいないでしょうが、東京駅ではありませんよ。大阪の中之島公会堂です。

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 私にはセーヌ川の風景と大阪・中之島の風景が、とても重なって見えるんです。初めてシテ島を眺めた時は、「あ、これは中之島と同じだ」と思わずつぶやいた記憶があります。ある意味、シテ島と中之島はとても近い光景で、中之島の方がどちらかと言えば大阪らしくない。ベルクの言う「無秩序な都市計画」とはとても思えない光景です。

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 ところが中之島からちょっと離れて、茶屋町の方に行くと、電線が蜘蛛の巣状になっていて、向こう側には茶屋町アプローズがそびえ立ち、手前にはゴチャゴチャした家が建ち並び、いわゆる「大阪らしい」風景になっています。

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 この写真は私のお気に入りで、大事にしている写真です。手前には仕舞た屋風の建物が並ぶ前近代、向こうには超近代のビルがあります。つまり、一枚の写真の中に、前近代と超近代がコラージュされている風景なんです。おそらく、ベルクさんはこんな風景は許せないでしょうね。ただ、この光景は10年以上前のもので、今は存在しないことを申し上げておきます。

三極構造(ヨーロッパ、東アジア、北アメリカ)の中での〈再中心化〉
 こと都市に関する限り、オギュスタン・ベルクといえども、単なる文化の多様性や型の多元性というだけではすまされない。何を以ておのれの準拠枠にするか、という問いに接したとき、彼はやはりヨーロッパの都市に回帰します。それ以外に彼のよるべき所はない、ということになるのです。

 ただ、ここで申し上げておきたいことは、ベルクは日本とヨーロッパをつき合わせてみて、自分のいた中心に戻っていったということだけではありません。ベルクがいつも発想しているのは、日本の問題と同時に現在の日本のあり方を左右しているアメリカのことです。これが関係してくるんですね。彼の批判は、日本の都市計画や都市政策に向けられたものであると同時に、それを支配しているアメリカニズムに対する批判でもあるのです。

 さらに言えば、日本とアメリカだけが問題なのではなく、自身が属するヨーロッパもアメリカニズムの影響で、危機的状況にあるという意識があります。そうなりますと、日本とヨーロッパだけでなく、アメリカの存在を合わせた三極構造の問題になります。アメリカ・日本・ヨーロッパという世界の三極構造の中で、互いに照らし合わせる、その中で彼は、やはりギリシア・ローマにさかのぼる伝統的なヨーロッパに自分の立ち位置を定めているんだと、私は考えます。

 これが私の考える「再中心化」ということであります。「再中心化」をもう一度言葉で確認すると、「これまで生きてきた世界からいったん外に出た自己が、自己相対化を経て自己を取り戻すこと。自己相対化に続く自己確認の手続き」というふうに規定されると思います。

 今日はベルク風土学とはいかなるものかを、彼の持論を詳細にわたって紹介することはとてもできませんので、そういう形で彼の「風土学(メゾロジー)」ができ上がっていったのだ、という経緯だけご説明しました。さて、ここからは和辻についてです。

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