まず、和辻哲郎について紹介しておきます。兵庫県姫路市に1889年に生まれ、東京帝国大学哲学科を卒業しました。若き日より文化史に心を寄せ、『古寺巡礼』(1919年)『日本古代文化』(1920年)などを発表しました。
その後、文部省在外研究員として1927年(昭和2)にドイツに留学しています。旅行中の「さまざまの風土」の印象に加えて、刊行されたばかりのハイデガー『存在と時間』を読んだことで、風土論の構想を得たことが知られています。
本当は3年間のドイツ留学の予定だったのが、1年あまりで切り上げて帰国しているんですね。なぜそんなに早々と帰ったかというと、実はホームシックだったらしい。しかし、彼は見るべきものはちゃんと見ています。帰国後の1935年(昭和4年)から、『風土』の各章に相当する論文を次々に発表しています。その発表された論文の中に、「日本の珍しさ」(風土第3章)という文章がありますので、まずそれをご紹介します。
その文章の冒頭で、和辻はこういうことを述べています。自分はヨーロッパを見物して珍しいという印象を受けなかったにもかかわらず、帰ってきて日本を見ると、日本が「アラビアの砂漠にも劣らないほど珍しい、まったく世界的に珍しいものであることを痛切に感ぜざるを得なかった」ということを述べています。
これはなかなかに面白い告白でして、和辻は日本を出てヨーロッパを見ても、さほど珍しいとは思わなかった、反対にベルクは日本に来て、大変珍しい所だと思っているのです。ところが、帰国後の和辻は、「日本が珍しいことが分かった」という言い方をするのです。この違いがお分かりいただけるでしょうか。
なぜ初体験のヨーロッパの印象に珍しさがなく、日頃見なれてきたはずの日本の風景が珍しいと感じられたのか。彼の言葉ではこんなふうに説明されています。
ヨーロッパについては「洋風建築の通例のあり方を日本の都会における洋風建築から理解していたものにとっては、そのあり方の通りにあるヨーロッパの都会が珍しいものではなかった」。ところが、日本の都会は、和辻が経験してきたばかりの西洋の都市構造に照らして見ることで、異常な不釣り合いとして映ってくるのです。それを「日本の珍しさ」として述べているのです。この不釣り合いについては、以下の引用文に詳しく述べられています。
その考察に移る前に、和辻が見た風景とはどんなものだったかを再び写真で見てみましょう。だいたい昭和初期に近いものを捜してきました。以下は桑原甲子雄という写真家の『昭和十一年』(晶文社、1974年) という写真集からピックアップしたものです。ですから、和辻の書いている時より数年後の姿だと思ってください。
II 和辻と西洋――「日本」の発見へ
●「日本の珍しさ」
日本都市の異常な「不釣り合い」が、なぜ新たに印象づけられたのか
ベルクは日本にやってきて脱中心化しました。では、和辻は西洋に行ってどういうことをしたのか。
「日本へ帰って街上の自動車・電車を見る。それはまるで麦畑の中を猪が暴れまわるような感じである。電車が突き進んで来るときには、左右の家並みはちょうど大名行列に対して土下座している平民どものように、いくじなくへいつくばっている。電車の方が一階の軒よりも高く、また一軒の間口よりも大きく、そうしてもしそれが暴れ込めば家の方がめちゃめちゃにこわれるだろうと思われるように堅固で、しかもそれが木造家屋の力を圧倒し去るような勢いをもって突き進んでくる・・・…ヨーロッパの町々では、家に比べてはるかに小さいこれらの交通機具が、いかにも交通のための「道具」らしく、従って町や人間に服従した家来らしく、そのものの持つ意味にぴったりと合った感じをしか与えない。しかるに日本の町では、これらの「道具」「家来」であるものが人を圧し町を圧してのさばり回っている。自動車や電車そのものがほぼ同じ形同じ大きさであるだけに、この同じものが家や町との間に持つこの奇妙な釣り合い、というよりも不釣り合いが実にいちじるしい珍しさを印象するのである」(和辻哲郎『風土――人間学的考察』岩波文庫、187頁)。
和辻はこのように日本の光景を受け止めたのですね。面白いのは、もともと彼が見ていたおなじみの光景であるにもかかわらず、ヨーロッパから帰国すると、これが印象づけられることです。なぜなのか。
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これは東京台東区の浅草周辺です。下町のあたりで電車なんか走っていませんから、近世から続いてきた道幅ではないかと思います。そんなに異和感はなく、むしろ懐かしいなという感じではないでしょうか。 当時の浅草オペラの付近も、同じ写真集に収録されていますが、繁華な町並みです。
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当時、洋風建築がいくつか町並みの中に入ってきています。ただ日本人のサイズに合わせているので異和感を感じないのですが、この写真では画面の中に一人異邦人が登場することで、一種の異様さが感じられますね。
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表通りは電車が走る大通りになっていますが、両側は従来の平家家屋が並び、和辻が言う「不釣り合い」を呈している状況だと思うんです。あんまりそれをはっきり表している写真がなかったのが残念ですが、「猪が暴れ回っているような」という和辻の表現も、あながち的はずれではなさそうだと思います。近代東京の都市計画の中で着々とインフラ整備が進んでいるのでしょうが、それに都市建築がついていっていないという状況だったのだろうと思います。
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これは、ベルクが日本に来て異和感を感じて、脱中心化するのとは全く違うことです。和辻の場合は、日本文化を相対化する余裕もなく、西洋文化に飲み込まれてしまったという状況だったということです。そして、彼が我に返って自分を取り戻すのは、ヨーロッパから帰国して、おなじみであったはずの日本の都市を見たときなんです。その時初めて、彼の「脱中心化」が始まると言ってもよいでしょう。ベルクに比べたら、ずれがあるのです。
最初にベルクと日本の関係を一つの軸に置きました。そして和辻と西洋の関係を、今のようなやり方で考えてみました。この二つの関係から見えてくるのは、明らかに風土間の圧倒的な落差です。ヨーロッパと日本の都市の間には、言ってみれば宗主国と植民地の関係にも比すべき「中心」と「周辺」の関係、もっと強く言えば「正統」と「異端」の関係があるのです。そこには絶対的と言ってもいい落差が存在するのです。
周辺←中心 |
なぜかと言えば、ベルクは自分が中心にいて周辺的な存在ではないということを、わざわざ自分に言い聞かせたり問い直したりする必要がない、あるいはできないようになっている。しかし、周辺から中心に行った方は、風土を考えるとき、自分にとってヨーロッパとは何か、自分とは何かという問いかけをせざるを得ないだろうと思うのです。
歴史を通じて、一度も周辺化したことのない中心というのは、もちろん西洋です。しかし、それに対して、風土間の非対称の構造を反省することから成立するのが、風土学の一つの立場であると思うわけです。周辺から中心に行って、中心と周辺の関係を考える、そういう風土学の立場です。和辻風土論をその立場に見立てることができるのです。そして、中心にいて脱中心化しながら、また中心に戻る、そういう風土学が、ベルクのメゾロジーではないかと思うわけです。
これはとても簡単な言い方をしております。和辻の風土論をどう捉えるかについては、いろいろ考えなければいけない問題がありますが、細かいことはさておきまして、和辻の風土論で一体どれだけのことが可能なのかを次に考えて行きます。
和辻は、家というものを鳴海先生が言うところの「屋敷型」として捉えていたのではないかと思われるのです。実は、和辻自身が住んでいた家も、姫路の農村の医者の家で屋敷でした。彼は日本の家を論じるときに、長屋とか町家を全然問題にしていないのです。これはとても大きな欠落であると思います。彼はパリの町並みを見て、「西洋長屋である」と呼んでいるのです。そんな彼のスタンスからすると、西洋の公共性に対して、日本の家から出発してどういう街を作るかという問題意識に基づいて、日本の都市と風土性を解明するということをやらなかったのは、当然とも言えるでしょう。都市の風土性という課題は、和辻には未解決のまま残されています。
普通は、風土を知ろうと思えば、その土地に住みつかねばならないもので、そこで人びとと交わってこそ風土が分かるものです。それは確かにその通りなのですが、逆に旅行者としてわずか数日あるいはたった一日、数時間でも決定的な印象を受けることは可能です。実際、和辻はほぼ3か月にわたる航海でフランスのマルセイユに着くのですが、その3か月の間に中国やシンガポール、セイロン、紅海のアデンに寄港して、それぞれの風土的特質を旅行者の目で見ました。ここで彼はただ単に沙漠や牧場を知ったわけではなく、他者の風土と自己の風土を知る。つまり他者と自己を同時に発見しているのです。これは正に「脱中心化」と「再中心化」が同時であるということを意味しているのではないでしょうか。
これは、ヨーロッパを見たときとは全く違う現象なんですね。ヨーロッパの中に入って、そこに同化して日本に帰ってきた時に、初めて「脱中心化した」と言いましたが、沙漠やモンスーンが対象であれば、ヨーロッパとは違って他者発見と自己発見が同時に成り立つのです。なぜそういうことが可能になったのでしょうか。
この場合には、一つの風土と他の風土との間に、例えばモンスーンと沙漠の風土の間に、非対称の構造がないからです。一方が絶対的に高く他方が低い位置にある、ヨーロッパと日本のような落差がないのです。言ってみれば、それらはいずれも「非中心」で、周辺の世界です。ですから、そういうものと出会ったときに、己れを中心的位置に置く必要もなければ、他者を周辺に引き下げる必要もないのです。対等な出会いがそこに生み出されるのです。異なる風土と風土の出会いの論理、出会いの事実を、和辻が近代日本において初めて具体化したと私は思っています。風土学が日本的な展開をするなら、ここから展開していかなければならないと私は考えています。
ところで、ここにいらっしゃるみなさんは、風土にも関心をお持ちでしょうが、何よりも都市の専門家ですから、都市のあり方に最も関心があると思います。都市とは何かを考えてみますと、都市とはそれ自体が、中心と周辺という構造を歴史的に生み出してきた構造化の所産にほかなりません。都市は、非都市に対する中心なんです。農村、山村に対する中心的存在として成立したものです。ですから、都市は単なる風土ではない。そこにおいて、例えば沙漠とモンスーンのような対等な風土間の関係が可能になるとはどういうことなのか。そういう問題を考えなければならないと私は思うのです。つまり、都市の風土学というものをいかに確立するかが求められると思います。残念ながら、和辻の思考にはそれがない。
今申し上げたことは、私自身の課題でもあり、都市の風土学という考え方は成り立つのかどうか、意味があるのかどうかということを、今日来て頂いている専門家の皆様方にもお考え頂けたらと思っております。ここ数年、私はこういうタイトルで大学院の講義を続けていますが、その成果として、この2月に『都市の風土学』(ミネルヴァ書房、5000円+税)を上梓いたしました。よろしかったら、どうぞお読みください。
●異質な風土との出会い
〈都市の風土性〉に対する視点の不在
ベルクのメゾロジーに対して和辻が独自性を主張するのは何なのかを考えてみると、和辻には都市の問題に対する関心はほとんどありません。先ほど、和辻が日本の都市に対して「珍しい、珍奇である」と言ったことを紹介しました。ではそこから、和辻は日本の都市はどうあるべきかという問題に移ったかというと、そんなことはありませんでした。本質的なところ、つまり「日本の都市は、西洋にあるべき公共性が欠如している」ということは見ていましたが、ただちに欧米一元的な基準を導入して都市の外面を整備しようとは考えませんでした。間風土的主体〜〈自己〉の発見と〈他者〉の発見
しかし、それを差し引いても、彼には貴重な洞察というものがあります。それは「異質な風土との出会い」という問題です。これをはっきりと言葉にしたのは和辻です。『風土』第2章に風土の類型論があります。モンスーン、砂漠、牧場という三つのタイプを、彼は風土として区別しました。これはどんな所から生まれた類型かというと、自然科学的な立場から客観的に分けたタイプではなく、直観から生まれました。彼自身が、直接その異なる風土に接して、それで驚く。そういう経験から形にしていった類型なんです。その一例を、沙漠を論じた文章から引用します。
「人間は必ずしも自己を自己において最もよく理解し得るものではない。人間の自覚は通例他を通ることによって実現される。しからば沙漠的人間の自己理解は霖雨の中に身を置くことによって最も鋭くされるであろう。このことは沙漠的ならざる人間が旅行者として具体的沙漠に接近し得ることを立証するものである。彼は沙漠において己が歴史的・社会的現実のいかに沙漠的ならざるかを自覚するであろう」(和辻哲郎『風土――人間学的考察』岩波文庫54頁)。
実際和辻は沙漠というものを知って、衝撃を受けます。これは自分の生きてきた世界とは全く違う。木一本生えていなく、草一本生えていない、ごつごつとした岩山しかない世界。それを知った時、自分はこれとは違う風土の人間、和辻の言葉では「青山的人間」であると表現されています。それは非青山的人間(=沙漠的人間)と全く違う存在で、さらに非青山的な沙漠に自分が旅行者として足を踏み入れたということを自覚することになります。
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