口に出して言うとそれは意見になって、例えばご町内でそう思わない人と対立関係が出来てしまってお祭りとかが上手くいかないという思いがあるので、それは言わない。でもうちは直すんだよと。ちらちらと見てもらって、それでまた直そうかなという人がいればいいなと考えていました。
家は主人の家ですから、主人が中身の事については色々考えて、設計に5、6年かけていましたが何とか出来ました。
自宅の改修
■自宅の履歴
うちの町家を直したきっかけは、まず家をそのまま改修して、それを周りの方々に見て頂くことで町家は使っていけるんだ、直していけるんだ、近代的な生活が出来るんだという事を見てもらうのが、やはり設計者としての仕事ではないかと思ったのです。
明治39年頃に旧東海道では官有の泥上げ敷と軒下の所を店として使用しても良いという話があり、その使用許可を7代目が県知事に対して出してるんですね。それで道が今よりも狭い状態で軒下地を全部占有願いを出して使うという形になっていたようです。
その後、大正11年に厠、浴場、座敷の改造をしています。家が建ってちょうど50年です。ですから50年も経つとちょっと中を替えようかなと思うものなのかなと思った次第ですけれども、大正12年にも家屋改造ということで家のあちこちをさわっています。
それからちょうど大正から昭和に変わる直前に、表に店の陳列台を完成させたという記録が残っています。先ほど案内のときにも少し説明しましたが、ばったり床机がありました。ばったり床机は今蔵の中に眠っております。
上のパワポのなかに昭和初期に取られた写真があります。右手に研ぎ出しの腰を付けたガラスの陳列台があります。ちょっと見て頂きたいのは側溝です。側溝の手前の所というのは昔は泥上げ敷になっていまして官有地なんですね。その官有地にこうやって陳列台を出しています。
この時期に町中の写真が沢山撮られました。大津祭の宵宮のときに各町内で残っている自分の家の写真を出しています。これはそのときの写真です。
その後、昭和7年に県から先ほどの泥上げ敷の官有地、約三尺あるんですけれども、その場所の占有権を取り消すから一年以内にセットバックしなさいという話が各家に通達されました。それで、うちではちょうど昭和8年1月にこの表三尺の切り取りという事で家屋を改造しています。
それから昭和40年代、どこでもそうですけれども、アルミサッシというシルバー色の近代的な建材が世の中に出回った時期で、そのときにここを改築しています。
ざっとこれがうちの家の改造の履歴です。
最初の間取り図 | 大正期の改造計画間取り図 |
実はこの7代目の源之助さんは非常に筆まめで、こういった座敷の改造行為の設計書ですね、今で言う、そういうものやら、大正7年から15年にかけての買い物帳を残してくれています。
そのとき何円かかったという記録もありまして、ちなみに座敷の改造は、その当時で1500円かかっています。大工さんの手間賃が2円の時代に1500円かけていますので、当時の2円が今の2万円と考えると1500万円くらいかなあと思いますけれども、それで毎日ちゃんと手伝いが2人来て、その人に冷やしそうめんを食べさせたとか、そういったことまで全部書いてあるんです。
それで、こちらに判子が押してありますけれども、これはちゃんとあってるかどうかチェックしているという、非常に筆まめで几帳面な方だったようです。
その話を町家を考える会の夜話会の時にしましたら、聞きに来られていた先生が「冷やしそうめんをバカにしたらダメだよ」と言われました。というのもその時代の冷やしそうめんは高級なもので、大津はまずそうめんなんかなかったから、三輪辺りからゴトゴト荷馬車に揺られて来て、それを折れないように持ってくるのにすごく大変だったと。しかもそれを冷やすのが大変なんです、氷がない。つまりこの当時の冷やし素麺はご馳走を食わせたという意味だぞと言われて、なるほどと思ったんですね。そんな記録が残っています。
オモテ三尺切り取り・昭和8年 |
それについていた平面図がこれです。うちは家を建ててまだ6〜70年しか経っていませんので、建て替える事を選択しなかったのだと思いますが、それで恐ろしいことに元の家をそのまま三尺切り取って下げますということにしたんですね。
どうもこの図面は間違っているんですけれども、そのときに当然大事な構造柱が無くなるわけで、梁を持たせるために丸い鉄の棒を入れました。それが今でも入っています。陳列台も同じように下げて、かなり安っぽい感じになりました。
それから今までは土間づたいにずっと外に行くようになっていたのですが、途中に床を張りました。茶の間の一画だけに皆がいたので、まずTVを分散させました。母が茶の間で見ていたら背中合わせで父が別のTVを見る。2階には私達用のTVを置いていますので、皆が分散して文句を言わずにTVが見られ、居場所を分散できるというような環境に替えました。
それと、前の家は土間があって、いきなりお風呂の湯船があって、着替える場所がありませんでした。今も土間づたいの通りにあるのですが、扉を閉めたら脱衣室になるようにしました。私にすればこれが一番の改善点です。
実は以前は2階に行くには玄関の間(ま)から押し入れみたいな所を通って階段を上がってオモテの部屋へ行っていたのですが、今はお客さんに玄関の間(ま)からこの座敷に入ってもらう事は荷物だらけのため変わらずできませんが、階段は別の場所に取りました。
妻壁の焼き板を張り替えて、ショーウィンドウもつくり直し、どうしても町家の中に出てくる設備もそこそこ隠しました。複層ガラスが嫌らしい光り方をしていますが、こういう形になりました。
写真の左下は祭りの時です。別に提灯屋だからというわけじゃないですけれども、2階に提灯型の照明器具を付けて、上が明るくなるようにしています。
実はショーウィンドウを作り直した結果、母が年がら年中ここの模様替えをしてくれるんです。お雛様の時期になったらお雛様を並べる、お正月にはお正月の雰囲気を、クリスマスには仏教徒のくせにいつのまにかクリスマスグッズを沢山集めてと、そういう事をしてくれます。すごく有り難いと思っています。
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昔は井戸の神様がいて、おくどさんがあってと、すごく暗い空間だったのですが、窓ガラスを入れて明るくしました(写真左)。 。 そして右の波打っている土壁はのたぐり壁と言うそうです。貫のふくらんだ所に土をつけるので、波打つ感じに仕上がるんです。これは大津の町家に見られる独特の壁なんですけれども、こういったものが見えるようにしました。 それと溢れていた物を片づけられるように、収納をつくっています。
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2階に私達の部屋があるんですけれども、1階にいる両親の気配が感じられるように曇りガラスにしていて、灯りがついていたら居ることがわかる、ご飯ですよと言われたらここから声が聞こえる、そして何より涼風を浴びることができるようにしていることが、一番気に入っています。 右が店です。今、物が増えています。ダメですね、長いこと同じ家に住んでいる人というのは。私は「空間拡大病」と呼んでいます。滋賀県の人は特にそうなんですが、皆土地があちこちにあるからか、物がどんどんどんどん増えるんです。狭い所でぴしっと暮らしていると物の量をコントロールするんですが、なかなかコントロールができなくて、家の中には凄い量の物が溢れています。家の中の片づけができない状態です。
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