実は今日の町歩きのときもそうだったのですが、大津の町中をご案内したり話したり、こういう場に来ると必ず何処で何をしてきたかと聞かれます。そういう時にわかりやすいかなと思って必ず使うネタがこれです。
実は私は大阪の千里ニュータウンの中で育ちました。父が大手建設会社におりましたのでそこの社宅で幼児期を過ごし、それから千里ニュータウンで民間のマンションを買いまして、最終的には大阪の豊中に戸建てを買ってそこで生活してきました。
私自身は奈良女大の住居学科の高口ゼミを卒業してから、どちらかというと住宅の設計をする所におりました。ただバブル期でしたので某大手マンション会社に入ってそこで6年間勤務しました。その後バブルがはじけ、私達の年代というのは自分のやっている事に疑問を持った年代なんです。そこですぱっと辞めて専業主婦を目指しましたが、それもなかなか出来ずにいましたところ、実は森川さんの事務所で学生時代バイトしていた事があり、事務所の方に自分で事務所を興したらと声をかけて頂きました。
そのときに前の会社と全然違うことをしたいと思いました。というのも奈良女の住居学科で学んできた事は社会に出てやってきた事と全然違ったからなんです。マンションというのはいきなり町の中の仕組みとか関係なしに大きなものがポンと建ってしまう。絶対近隣の方とぶつかってしまう。設計をしていても、どんな人が住むかわからないから、どう設計していいのかわからない。
それで自分で仕事をするなら、人と住まいと町というものの関係を考えた住まいづくりをしようと決めました。この時に役所の仕事はすまい、下請けの仕事はすまいというのもちょっと入っていたのですが。
で、実はこの独立する2年前に今の夫と会社で出逢いまして、1988年に大津との関わりを持つようになりました。会社に入って柴山と出会って、つきあう時には結婚が前提、同居が前提だと言われたんですね。ですから初めてのデートがこの大津、しかも家を見に行くという事だったんです。
家を見に行って、学生のときに京都の町家で見たのと同じようなものが家の中にあって、彼が江戸時代から面々と続いている提灯屋のボンだと初めて知ったのがこの時です。これはえらいことになった、と思ったのが1988年、私の大津との出会いでした。その頃の私は大阪におりましたので京都より向こうは近畿だと思っていなかった。そのくらい私にとっては遠い場所に関わってしまったわけです。 町家を直して町家で暮らす
■千里ニュータウンに生まれ、大津に来る
「町家を直して町家で暮らす」という所に足を置いて話をしたいと思います。
「町家をとりまく暮らし」ということで、私の見てきた大津の暮らしをご紹介します。 お正月が大変なんです。お正月は神様やら仏様やらに、正月三ヶ日、本当は一日3回ちゃんとご飯を作らないといけないのですが、一日2回にしています。自分達が食べる前にまずは神様仏様からという事で神様も複数いらっしゃるので、複数いる神様やら仏様、ご先祖様、最近亡くなったおばあちゃんやら全員にこういう色んなものを準備する。しかもそれを寒い土間で、そこに1人一台暖房器具を置いてやることになる。ニュータウンのマンションで育ってきた私にとっては何という生活だろうと。 ただすごく面白いなと思ったんですね。あ、これが何か昔の生活なのかなと思いつつ、こういうところで暮らすということに、まあお正月だけではないですけれども、暮らしというのを感じました。
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それと大津祭ですね。祇園祭と似ているのですが少し違っていて、もう少し町衆に近い祭りです。店のウィンドウにはいろんなものを飾って、町家の中では家族や招待した方々と食事を楽しみます。曳山(ひきやま)を2階の部屋から見るのが祭りの楽しみ方で、窓枠を全部外して毛氈を垂らします。 このような生活が私にとってはすごく目新しい事でした。
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