4−5 ラ・ヴェルナLa Verna  エコロジーの聖地
          江川 直樹  NAOKI EGAWA  関西大学
 
 イタリア半島中央を南北に縫うアペニン山脈の中、トスカーナ州とエミリア・ロマーニャ州の州境にあるカゼンティーノの森・フォルテローナ山・カンピーニャ山国立公園という、複数の山と森からなる国立公園に、アッシジの聖人フランチェスコ(Francesco d’Assisi=聖フランシスコ)が頻繁に滞在したという聖地ラ・ヴェルナ(La Verna)がある。
 今回のセミナーに絡めて、私たちは、レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452−)、ミケランジェロ(1475−)、ラファエッロ(1483−)の生誕の家を訪れるという余興を目論んでいたのだが、あわせて、世界最大の修道会、フランシスコ会の創始者、聖フランチェスコ(1181−)が聖痕を授かった地を訪ねるという機会に恵まれた。
 このセミナーのテーマは、「小さな町の豊かな生活」であり、「メルカテッロのアグリツーリズム体験」でもある。アグリツーリズムとは、広義には「都市と農村の交流」であるが、実際には、農場で休暇を過ごすことである。その背景には、自然調和の生活の再評価ということがある。後に述べるように、歴史学者のホワイト(1907−1987)は、聖フランチェスコを「エコロジストの本尊」と呼び、1979年には、ヨハネパウロ2世が「環境保護の人々の守護者」と選定した。また、聖フランチェスコは、自分たちの集まりを「小さき兄弟会」と呼び、「小さき」と「兄弟」という二つの概念によってこの共同体の本質を示している。

■聖フランチェスコの聖痕
 フランチェスコは裕福な家庭に生まれたため放蕩生活を送っていたが、騎士になろうと思い立ち、対ペルージャ戦に参加するが、捕虜になり、病気にかかるなどした。1206年頃から改心が始まり、家を出て、ハンセン氏病患者に奉仕し、荒れ果てた聖ダミアノ聖堂の修復を行うなどし、1208年に福音書の三節を自らの戒律とし、活動を始めた。戒律は全ての財産を放棄して福音を説くことを求めるものであった。弟子たちとともに各地を放浪し、説教を続けた後、1210年、当時のローマ教皇であるイノケンティウス3世に謁見し、修道会設立の許可を得る。 1213年、聖フランチェスコに感銘を受けたカターニ伯爵は、伯爵が所有していた荘厳なまでに原始的なラ・ヴェルナ山を、聖フランチェスコに譲り、以来、聖フランチェスコはしばしばここに隠遁し、孤独の中で修道に励んだ。 
1224年の夏、40日間の断食中、主キリストが現れ、聖フランチェスコの両手、両足、そして脇腹に、キリストが十字架に貼り付けにされた際に受けた傷同様の傷(聖痕)が刻印されたという。聖地は標高1200メートルの森深い山中にあり、真夏でも肌がひんやりとして、禅寺のようなひっそりとした雰囲気である。今でこそ修道院や教会があるが、寝泊まりしていたベッド代わりの洞窟の中の石、瞑想をした苔むした岩場、悪魔と戦ったという切り立ったがけなどが今なお残る。

■エコロジーの始まり
 エコロジーの年表は、「兄弟なる太陽、姉妹なる月」と霊的平等を説いた聖フランチェスコから始まるといわれる。聖フランチェスコは、太陽、月、風、雲などの自然現象まで万物すべて神の兄弟として敬った。火のそばに座った聖フランチェスコの服に火が燃え移っても消そうとせず、兄弟よ、火の邪魔をしてはいけないと言ったり、木を切るときには丸ごと切り落とすのではなく、木が生きていけるようにある部分は残すように命じたり、すべての土地を野菜のために耕すのではなく、いくらかの野の草花のために残しておくようにさせたという。キジ、野兎、ひばり、タカ、コオロギ、魚、羊からも慕われたという。聖フランチェスコの祈りは、今生きている喜びを神に感謝することだったという。  
 1986年11月には、京都栂尾高山寺とアッシジの聖フランチェスコ教会が兄弟教会の縁組を結んだ。聖フランチェスコのエコロジーは、学問や思想、運動としてのエコロジーではなく、自然を愛し、自分を愛する自然な行為で、自分自身の境界を越えて、他の動植物を含むいのちのネットワークまで広がっているとされる。
 ラ・ヴェルナでは、サービス車は十分入れる道があるけれども、一般の参拝客や観光客は、遠く離れた駐車場で車を降り、延々とした未舗装の道を歩いてアクセスする。ぶな、もみ、かえでなどが植生する美しい森の中の道である。どこかの国のように、至近の場所までバスや車を引き込むことはしない。小さな町の豊かな生活の本質は、実はこのようなことの総体のなかにあるのだと感じる。
 
 

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