都市の自由空間
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■祭祀、商業、社交としての自由空間
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人びとが参集する自由空間の成立
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ミチ的空間が自由空間であると先ほど申し上げましたが、ミチ的空間の中に人が集まってくる空間が出来てきます。それを「祭祀的自由空間」と名付けました。大きな岩の前とか大きな樹木の前、あるいは泉の前など、なんとなく神様がいそうな場所です。そこが他とは違う場所として認識されるにつれ、人が集まってくるようになるんです。それが展開していくと、神社のような空間になってくるわけです。
そうした展開は、それぞれの文化や文明によって違ってくると思いますが、日本の神様などはあちこちにいて、その時々に神様がやってくる場所を「社」としました。社とはもともと「神を迎える建物を建てる場所」を意味し、建物という意味ではないのです。
そうした空間には必ず人が大勢やってきますし、そうすると「取引」が始まります。なぜ取引がそこで行われるかも面白い理由があって、取引には必ず公平さが必要になってきますので、取引を神様の前で行うことによって神様が公平さを保証してくれるという考え方が古くからあったようです。交易は神の見ている場所で行うというのは日本だけでなく、外国でもそういう傾向があったようです。ですから、聖なる自由空間は商業の場所にも変わっていくことになるのです。
そして、宗教的また商業的に人で賑わってくると、そこが社交の場になっていくのも当然考えられることです。日本では「歌垣」の場が重要な社交空間の一つでした。つまり、ボーイフレンド、ガールフレンドを見つける場所にもなっていくのです。将来の連れ合いを見つける場所がないと、人が集まって暮らす仕組みが成り立ちません。レヴィ・ストロースが「円形の集落は結婚相手を見つけるための構造だ」と説明していましたが、結婚する相手を如何にみつけるかは、その人にとって重要であると同時に、社会にとっても大事なことでした。そのための仕組みが必要なのです。集落の規模が小さい場合は、よそから結婚相手を見つけなければいけない、そういう認識がありました。そこで、歌垣という行事が生まれてきたといいます。自由空間は異性を見つけるための場所という役割も出てきたわけです。
ですから、自由空間は単に歩くだけの道ではなく、宗教という聖、商売をする市、異性を求めるための歌垣のための空間でもあったのです。フレーザーの本にあったアマゾンの集落の聖なる空間の構造とも繋がりがあるのかなあ、とも考えました。
■ヨーロッパの広場
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アッソスのアゴラ(出典:レオナルド・ベネーヴォロ著、佐野敬彦、林寛治共訳『図説・都市の世界史 T』相模書房、1983年)
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ポンペイのフォラム(出典:ポール・ズッカー著、加藤晃規、三浦金作共訳『都市と広場』鹿島出版会、1980年)
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聖なる場所で人びとが集まり、社交も行われる空間として、ヨーロッパでは広場という空間が生まれていました。ギリシアでは「アゴラ」という空間として成立しています。アゴラは世俗の広場として知られています。アゴラの横には「アクロポリス」と呼ばれる聖なる広場がありました。ギリシアの街は、聖・俗の2つの広場を持っていたのです。
ローマ時代になると、フォラムと呼ばれる空間に発展していきます。ここは、いずれも列柱、つまり建築で囲まれている空間でした。ですから、ヨーロッパに生まれた広場は建築化した広場です。周辺に並ぶ列柱はストアと呼ばれます。英語でストアはお店や倉庫を意味しますが、アゴラの周囲を取り囲むストアはそのような機能をもっていたようです。
■日本の広場的な空間
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鴨の河原 京都(出典:「都名所図会」『新修京都叢書第6巻』臨川書店、1967)
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日本の都市にヨーロッパの広場に類似するものはないだろうかといろいろ探して、京都の鴨の河原に思い至りました。
鴨川は、河川改修する前はとても広い川幅でして、水が少ない時期は広い中州がありました。ここで絵のように茶店が出たり芝居小屋が出たりして、いろんな芸能をする人たちが生まれていきました。
鴨川の面白さの一つは「主がいない土地、無主の土地」だったことです。つまり、ここで何かをやって儲けても税金がかからないのです。ですから資本のない人たちが大勢集まって、自分の技と芸だけで生きていく空間が出来上がっていったのです。造園の技能を持った人たちもこういう場所から生まれてきたらしいというのも面白いことだと思います。
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浅草寺 昔(出典:『新版江戸名所図会下巻』角川書店、1975)
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浅草寺 現在
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お寺の境内も、日本における広場的な状況を作りだしています。写真は東京の浅草寺ですが、江戸時代の絵では境内に茶店が広がっています。これも時代によっては管理が厳しかったようで、江戸時代には朝に出して夕方には撤去しないといけないことになっていたようです。それでも毎日毎日、店を出し続けたのです。
■新宿・西口広場
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新宿・西口広場
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この光景を覚えておられる方も何人かおられるのではないかと思いますが、1960年代の新宿・西口広場です。学生運動が激しくなるちょっと前に、この広場ができ、ここでフォーク集会が開かれ、政治的なアピールをする集会もここで開かれるようになりました。私はそうした写真が撮りたくてわざわざ京都からいってきたのですが、なかなか感動的な光景でした。
この空間を設置したのは東京都で、「西口広場」と名付けたのも都です。広場だから集会をやってもいいじゃないかと集まった人びとは思ったのですが、こういう熱い状態が続きすぎて、東京都は「公共通路」と名前を変えてしまいました。広場ではなく通路なのだから、立ち止まってはいけないということになって、人びとを排除できるようになってしまったのです。
ヨーロッパでは広場で政治的な集会も開かれるし、中国の天安門広場では政治的なイベントも開かれます。そういう場所は日本では皇居前広場しかありません。西口広場が日本ではまれな広場として生まれたのですが、行政は「そういう利用の仕方は困る」と判断したわけです。私は政治的な関心から西口広場を取り上げたのではなく、広場を通路と呼ばないといけない日本的な発想がダイレクトに出ていた例だと思って取り上げました。
■欧米の青空市
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ヨーロッパの青空市
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マインツ・ドイツの青空市
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写真はヨーロッパのいろんな市場です。市場は都市の自由空間から生まれるアクティビティの中でも魅力的なものです。左の写真の左は私が大学院の1年生の時、右は数年前に撮った写真ですが、どちらも教会の周辺で開かれていた市場です。
こういう青空市はヨーロッパの街角では定着した光景です。右の写真は近郊の農家が出している手づくりの花の露店ですが、ちゃんとおなじみさんがいるようです。
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手押し車アーバニズム
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アメリカの商業空間というと大規模量販店やショッピングモールを思い浮かべる方も多いと思いますが、意外とグリーンマーケットと呼ばれる青空市が多いのです。ニューヨークのグリーンマーケットをネットで調べてみたら、相当の数がありました。
写真はニューヨークのユニオンスクエアで開かれているグリーンマーケットです。もともとユニオンスクエアは由緒ある公園でしたが、それがとても荒廃してしまったそうです。そこで、MITの建築科を卒業した若い農村出身のコンサルタントが、田舎の仲間と一緒にトラックで農産物を売り始めたのが始まりだったそうです。
やがてその売り方が定着してくると、ユニオンスクエアで市が開かれるようになり、回りの古いビルにしゃれたお店やレストランが開店するようになりました。ビルの上層階にはそうしたライフスタイルを好む人たちが住むようになって、ユニオンスクエアの環境が随分と改善されていったという事例です。「ただトラックの後ろを開けて、そこから直接売る」という所から始まったやり方は「Pushcart urbanism」と呼ばれましたが、これは日本語で言うと「リアカーから始めるまちづくり」といったところでしょうか。
このような「小さい都市再生」はアメリカ各地でたくさん行われているようで、都市のグリーンマーケットは意外に効果をもたらすものだと知ることができました。日本でもフリーマーケットを町の中でうまく使っていけばいいのではないかと思うところです。例えば、福岡に住んでいる私の友人は、フリーマーケットをやりたいと頑張っているのですが、なかなかできないと言っていました。なぜ出来ないのかはもう少し考えていかないといけないのですが。
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