都市の自由空間
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屋根のあるミチ空間

 

 ここからは、屋根のかかった歩廊を少し見ていきたいと思います。


■ポルティコ

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ポルティコ・ボローニャ大学構内 コンコルド広場周囲のアーケード・パリ
 
 左はイタリアのボローニャ大学構内にあるポルティコです。ボローニャにはこういう屋根のかかったポルティコと呼ばれる歩廊が延べ30キロもあると聞いたことがあります。

 右はフランスのパリ・コンコルド広場周辺のアーケードです。


■小見世

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青森県・黒石の小見世
 
 私の故郷の弘前の近くにある黒石の「小見世」と呼ばれる歩廊です。これは降雪時に通る通路です。黒石は、この小見世を使ってまちおこしをやろうとしているところなので、ご存知の方もいらっしゃるかもしれません。

 新潟県の高田市もこうした歩廊(新潟では雁木と呼ばれています)はよく残っていて、相当の長さになるはずです。


■パッサージュとガレリア

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アーケードの発明、パレ・ロワイヤル(出典:J.F. Geist, “Arcade − The History of a Building Type”, The MIT Press, 1983) パレ・ロワイヤルのギャラリー(出典:同上)
 
 ヨーロッパでは、近代になると新しくアーケードと呼ばれるものを発明しました。パレ・ロワイヤルのアーケードは当時の貴族が優雅に遊ぶ空間として作られたそうで、この影響を受けてパサージュという屋根のかかった商店街が生まれてきました。

 パサージュがどうして生まれたかというと、当時パリは表の街路がとても汚く、女性が着飾って綺麗な靴を履いてもそれを見せに行く場所がないという背景があったといわれます。時たまオペラに行ってお互いのおしゃれを見せ合うことはあっても、毎日オペラに行くわけにはいかないというわけで、ある頭のいい人が「女性がおしゃれをできる場所」というのを考えたのですね。ですから、パサージュは爆発的に流行ったんだそうです。女性のおしゃれもこういう空間を作っていく上でとても大事だなと思います。今は道路で若者が座り込んでも大丈夫なくらい路面が綺麗ですが、当時のパリの路面の状態は非常に汚かったようです。ですから、綺麗な靴を履いて優雅に歩き回るといったことはできませんでした。

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ヴィヴィエンヌのパサージュ(出典:J.F. Geist, “Arcade − The History of a Building Type”, The MIT Press, 1983) ヴィヴィエンヌのパサージュ現在
 
 19世紀にはパリの中に相当数出来たそうです。

 これはパサージュの今昔の写真です。少しだけ変わっていますが、現在もほぼ同じ姿で残っています。

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モリエールのパサージュ
 
 写真のような小さいパサージュは商店街ではありません。日本で言う路地として成立していたパサージュもたくさんあります。こういうところでは、家具とかパリブランドの小物などを作る職人さんの仕事場がたくさん入っているのです。

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ミラノのガレリア
 
 パリのパサージュの影響を受けて誕生したのが、イタリア・ミラノのガレリアです。モスクワにもグム百貨店というすごいのもあったそうですが、それもパサージュの影響ということです。


■台湾・三峡の亭仔脚

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台湾・大渓の亭仔脚 台湾の亭仔脚のタイプ(出典:李乾朗『伝統建築』北屋出版、1983)
 
 台湾には時代ごとにいろんなタイプの亭仔脚と呼ばれるアーケードがあります。もともと東南アジアにはこういう建物を造る伝統があったのですが、日本の植民地時代に道路の沿道の建物に亭仔脚を設置するよう義務づけました。今でも台湾の各地に、こうした亭仔脚が残っている街並みを見ることができます。


■ルドルフスキー・人間のための街路

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出典:バーナード・ルドルフスキー著、平良敬一他訳『人間のための街路』鹿島研究所出版会、1973
 
 ルドルフスキーの有名な著書『人間のための街路』の中で、大阪の日除けがあげられていました。この本によると「日本人ほど街路のデコレーションが好きな国民もいないだろう。毎日のようにどこかで必ず祭りがあり、街路の変装が要求され、あるいは少なくとも祭日気分を出すことが要求されている」とあります。

説明はちょっと間違っているとも思いますが、ルドルフスキーは日本の街路を構成する装置の多様さに気がついたというか、関心を持ったということが分かりました。


■アーケード

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アメリカのアーケード、左:プルマン、右:クリーブランド(出典:左右ともJ.E.Geist, "Arcade - The History of a Building Type", The MIT Press, 1983)
 
 ところで、そういうパサージュのある商業ギャラリーはアメリカにも伝播して、写真のようなアーケード空間が各地に誕生しました。

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弘前市(青森県)に出現したアーケード、1965、出典:『町誌−中土手町物語』弘前市中土手町町会・弘前市中土手町商店街振興組合、1970)
 
 さて日本では、近代的アーケードはなぜかこういう姿で出現しました。写真は、私の田舎である弘前市の商業アーケードです。私が大学2年生の時です。写真に写った看板には「ショッピングプロムナード開通記念」と書かれています。

 この頃、昭和40年頃に作られたアーケードは日本中にたくさんあります。そして今、アーケードが老朽化して取り替えないといけない時期になっているのですが、各地域の商店街は歯抜け状態になってしまって、新しくアーケードを作る費用が足りない、作ったとしてもメンテナンス費用が出せないという状況です。

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アーケードを撤去した街並み(弘前市)
 
 ですから、アーケードそのものをやめた商店街がたくさんあります。今後も撤去する所は増えるでしょうし、我が弘前市もアーケードをやめた町のひとつです。将来、日本中の町がまた様変わりしていくでしょう。商店街は活性化の問題と関係していますが、気をつけて見ていきたいと思っています。

 アーケード以前は、弘前にも「小見世」と呼ばれた古い木造の伝統的アーケードはあったのです。ところが、「木造は火事の時危ない」「暗い」ということを東京からやってきた商業コンサルタントが強く主張したらしいんです。そしてアメリカにあるようなアーケードを日本の都市にも作らなければならないと言ったそうで、弘前の商店街の人たちは古いものを全部とってモダンなアーケードにしたという次第です。

 どちらが良かったのかは分かりませんが、当時の商店街の人たちも相当考えて作っていたということが分かります。もちろん、黒石のように古いものを残した町もあります。

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