左の写真は江戸の移動商を描いたものです。江戸だけでなく大阪もそうでしょうが、裏長屋に住む庶民たちは、大店に奉公する人もいれば、こんなふうに自分で商品を担いでミチで商売をしていた人もいたわけです。近頃は時代小説が流行っていますが、それを読むとこういう人たちが裏長屋に大勢住んでいたことが分かります。
そうした人たちの中には、右の写真の古着屋のようにミチで小店を出す人もいました。もちろん常設の店ではなく、ミチに小屋を建てただけで、家に帰るときは片づけていかないといけない仮設の店です。
このように、日本でも古くから大勢の人が道路で仕事をしていたわけです。
こうした商売に対して、江戸時代には人口を規制するためにお上が何回も制限していました。強制的に田舎に帰す政策も何度かとられたようですが、資本もなく田舎から出てきた人はこういう商売で生きていくしかないのですから、ほとんど効き目がなかったようです。
面白いことに20世紀になっても同じような現象が世界中で起きています。ブラジルのサンパウロなどでは、都会に出て露天商をやっている人を田舎に帰すという政策をとったのですが、全然効き目がなかったようです。
また、中国でも都会の戸籍を持たない田舎の人びとが都市に流入する「盲流人口」という問題がおこっています。戸籍のある田舎に帰らない限り公的サービスを受けられないという厳しい政策ですが、それでも都会に出たまま帰らないという人が4百万とも5百万とも言われています。都市がそのような人びとを吸収するという性質をもつというのは、世界中共通していると思います。 ミチに付随して出てくる人々のなりわい
■江戸の移動商
江戸の移動商(三谷一馬『江戸商売図絵』三樹書房、1975所載)
江戸の床店(出典:同上)
冒頭に申し上げましたように、都市の自由空間であるミチでは昔から大勢の人がなりわいを得てきました。
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明治以降も、このように都会には移動商がいました。私が青森から初めて関西に来た頃も、京都や大阪でこういう商売の人をたくさん見かけることができました。
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この人たちは、けっこう遠くから、半日ぐらいバス代わりのトラックに揺られてやってきます。ここの露店が唯一の現金収入の場所だからです。そういう話を聞くと大変だなと思ったりもしますけれど、彼ら自身はけっこう楽しそうなんですよ。何回もやってくるとお得意さんもつくらしくて、お得意さんと話すことによってスペイン語が勉強できるし、商売をやることによって計算の勉強もできる。単にお金を得ることだけが露店をやる目的ではないということでした。
こうして、けっこう商売が上手になってくると、今度は右の写真のように盛り場で大きな露店も持てるようになります。日本でもそうですが、神社にたくさんの夜店が出るときには、それを仕切る人が必要になってきて、それがテキ屋の親分です。テキ屋の親分ともなると、5百ぐらいの露店を頭で覚え、すぐに場所の割り振りができるそうです。
ただ、ラパスではそれぞれの露店の場所が決まっていて、そこに権利が生じているという事情でした。中世の日本で商売人による「座」という組織が生まれました。「座」は「店を開く場所の権利」ということです。「権利」が生じてくると、こんどはそれを「取引」するということも発生してきます。もちろん、そこは道路ですから自分の持ち物ではないのですが、そういうシステムが出てくるのです。そして、それを仕切っているテキ屋の親分に当たるのが、ここラパスでは「シンジケート」と呼ばれる組織です。
アメリカではシンジケートというと、すぐマフィアと連想してしまいますが、もともとは組合という意味ですから、空間を管理する仕組みがそこにはあるのです。ですから、早い者勝ちで良い場所が取れるのではなく、買ったり売ったりしているのです。
■露天で構成された盛り場
ボリビア・ラパスの露天商
露天で構成された盛り場
左は、1976年にボリビアのラパスに調査に行ったときの写真です。こんなふうにすさまじい数の露店が並んでいます。実はこの時いくつあるのか数えてみたのですが、5500店ほどありました。市役所の統計では多いときはもっとすごい数らしいのですが、日常で5千を超えるというのは本当にすごい数だと思います。
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