徳島県の東祖谷落合集落
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実は、保存地区以外の集落でもそれぞれ萓葺き屋根を協働で直す仕組みを持っていました。それぞれ茅場があり、みんなで茅を集めて屋根を直すという仕組みでしたが、補助金制度ができてからは、多くの集落でもそうした仕組みをやめてしまったのです。苦労して茅場を維持しなくても、萓葺き業者に一括して出してしまえばいいのですから。 茅場の放棄が進んでしまい、美山町にあった大きな茅場で収穫された茅は業者に売られて、美山町ではなくてよその萓葺きのために使われるという事態が起きています。反対に美山町で必要な時は、よそで取れた茅が使われるということも起きています。
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つまり、茅が流通するようになってきました。ある意味合理化されてきたおかげで、萓葺き屋根が普及するのはいいことですが、その分、伝統的な仕組みが空洞化されることになりました。茅場があってもそれは従来のように集落のためではなく、よそに売るために作っている集落もあります。伝統的な仕組みはもうやめてしまった集落は近年すごく増えています。それは私としてはなんとなく寂しい現実だと思いました(川勝理絵・増井・古峨美鈴「京都府美山町における茅葺き屋根の維持管理システムの変容と支援 その1〜2」『日本建築学会学術講演講演集』2003.9)。
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農村の景観保存の問題を考えるとき、調査の段階から村が今まで持っていた伝統的環境維持の仕組みを継承していける保存のやり方、もともとある集落の力を生かせるようなやり方はできないかと思います。これは農業構造にも関係してきますが、今ある農水系の行政メニューでは伝統的な技術を生かせない仕組みになっているものが少なくありません。 農村が活性化するたびに何か大きなものを失っているという思いが私にはあります。、伝建地区ならばそれなりのやり方があるのではないかとも考えるところです。
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■昭和30年代の落合集落と伝統的環境維持システム
さて落合集落のお話しです。
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急斜面に古い民家が建ち並んでいるという地域です。昭和30年代の写真では、山を切り開いて集落ができ上がっている様子が分かります。 この写真を見て分かるように、家の近くで空いている所はすべて農作地になっていて、美山町のように茅場を作る余裕はありません。東北地方に行くと河原という河原にススキが生えている所がありましたが、落合はいくらでも茅が取れるという立地ではないのです。同じ萓葺きの農村集落と言っても、それが楽に成立するところと、すごく過酷なところがあります。 この落合集落の場合は、これよりももっと山奥に焼き畑をしているカ所があって、焼き畑でも何も収穫できないところに茅を植えていました。だから取りに行くのがたいへんです。
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ここでは、西亦、上村、中村、下村という4つの「組」に分かれていました。伝統的な外観としては、「前便所」といって家の正面に便所があります。また壁はしっくいがありませんので、竹を割って壁に貼る「ひしゃぎ竹」というやり方です。 調査の時、腰の曲がったおじいさんに「茅場に連れて行ってください」と言ったら、集落から半日も歩かなければたどり着けないところだったことに驚きました。 昭和32年頃までは、新築の家を建てるときは萓葺きが普通だったそうです。ヒアリングで「どんな材料を使いましたか」と聞いたところ、家は集落とその近辺で産出されるものだけでできていました。
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自給自足で家が建てられていたわけです。例えば石垣は集落で採れる物だけど、基礎はいい石がないから河原に降りて取りにいったという具合です。 また、材料だけでなく、集落のマンパワーで行う工事もありました。図の青字部分がそうです。製材まで集落の人の作業です。調査したS家はたまたま集落で初めてのスレート瓦葺きだったから業者が手がけましたが、従来どおりの萓葺きだったら共同作業になったはずです。だから集落の人なら、「この規模の民家だったら、これこれの材料がこれくらい」とある程度分かります。そういうノウハウを持っていました。民家は集落との関係でできていっているのです。
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このように、集落の環境を伝えていく仕組みを「伝統的環境維持システム」と名付けました。その特徴は、まず周囲の自然と一体化したシステムであること。そして、伝統的工法があること。現状では技術を持っている人はいるのですが、かなりの高齢の方々です。今後、途絶えてしまいそうなのが現状です。最後に「組」による共同作業があること。しかしながら、これもだんだん衰退していっているのが現状です。 またこれ以外にも「イットウ」と呼ぶ集落全体の共同作業もあります。例えば、台風などで被害が出た場合は、集落全体で復旧を行います。 ですから、個人で行う+組で行う+集落全体で行うという三重構造で集落の環境を維持するシステムがありました。
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実はこの集落では伝建に指定される直前に、農道設置計画がありました。伝統的な石垣でできた農村の原風景にコンクリートの農道を通すことには私は反対でした。石垣を避けてルート選定をするなどいろんなことをしてもらいました。またいろんな専門家に入ってもらって、いろいろ実験したのですが、やはりここの石垣とコンクリートはなじ まないことが分かりました。結局、変な修景になりました。 つまり、これは集落ではやったことのない伝統的な仕組みではない土木スケール事業が集落で行われた例なのです。今まで農道もあったのですが、伝建になって初めて自分たちの技術と景観が関係あるのだということが分かったのです。それ以来、石積の技術が大事だと集落の人も気づかれて、石積イベントなども行われるようになりました。
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ただ、集落の人も技術に口は出せますが、もう自分でやって見せるということができない高齢の人びとです。ですから、徳島大学の三宅正弘君(※)がたまたま調査に参加してくれで、徳島大学の土木の学生さんに石積をやってもらっていました。何でも三宅君は徳島のあちこちで石積を積みに行くというボランティアをやっていたそうで、ここでも彼が力になってくれました。 ※:三宅正弘『石の街並みと地域デザイン』。 このように、集落の人だけでは修景できませんから、ある程度支援体制が必要になってくるのです。
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企画からその広報、最後に石積作業にいたるまで、いろんな人が関わっていくときに、今までの組だけではない違う流れや、様々な人の関わり方が必要になってきます。その時、やはり集落の中だけでなく外部からのサポートが必要になってきます。 行政的なメニューはやはり補助金ですから、お金のサポートという面、その次はテクニカルサポートとして徳島大学の学生さんの腕力が大きいです。そういうサポートを上手に組み合わせていけば、今まであった既存の仕組みや年寄りの知恵を活かしながら伝統的な工法を継承して行けるのではないかと思います。
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石積だけでなく同じ仕組みが民家でもできないかと考えました。そこで、当時院生だった辻美沙緒さん(現・秋田市教育委員会)にといっしょに、この地区のN家が伝建で修理するやり方と、近くの集落で行われていた重文の木村家の保存修理事業を比較してみようということになりました(辻美沙緒・大富絢子・増井「伝統的集落における景観保全の支援体制に関する研究−徳島県三好市東祖谷の山間集落における伝統的建造物を事例として−」『日本建築学会計画系論文集 635号』2009.1)。 そうすると建材の確保や、いろんな工事のプロセスを整理していく中で、その核となる作業は茅の収集をすることであると分かりました。今までは茅を集めていた4つの組のそれぞれの作業でしたが、高齢化のためそれは無理ということになって、集落全体でやる「イットウ」で茅集めをして、それが恒常化する仕組みはできないかと考えました。仕組みの再編成です。
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ただそれも落合だけでは人手が足りませんので、近隣集落の応援を考えるとか、奥地にあった茅場をやめ、集落周辺の農地を茅場に変えていくということになりました。ただし、それらの作業の中心になるのは落合集落の人たちです。より茅を集めやすい場所にシフトし、かついろんな人がサポートしやすいような仕組みに変えることで、集落の人がこの伝統的な萓葺きを継続させていけないかということを考えるようになりました。
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実は茅以外にも竹が必要ですし、木材も必要ですが、材料をある程度自前で確保することによってコストダウンも図れます。というのも、この集落で自己資金50万円を持っているお年寄りはいませんから、自己資金ゼロでも民家が修復できるシステムが必要なのです。もちろん、補助金は出ますから、業者が材料を買うことで入ったお金を手間賃に充てて、村の人の負担をゼロにできないかなと考えました。
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今までは、一括業者に渡して全部やらせていた工事がこのやり方で煩雑になってしまったという批判もあるのですが、やはり工程での関わり方を工夫することによって集落の手間も入った修理・修景はできないかと考えています。将来的にはいろんな仕組みを整理してやっていけたらと思います。今ちょうど進められている修理事業では、このシステムを考慮していただいて、できるだけ集落の方から材料を買い上げるやり方で、民家の修復をしています。
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ただ、民家の修理に関わるいろんなシステムにも、これまで考慮されてこなかった集落のマネジメント的なことが求められてきています。いろんな方針作りや情報発信といった事ですが、それは村の中で今まで経験してこなかったことです。そういうサポートも必要になってくるでしょう。またもう一つ、技術面でも今までとは違うサポートの仕方が必要になってくるでしょう。 話がどんどん複雑化していくという批判もあるのですが、あえて申し上げるとこういう形になると思います。 そこで新しいタスクとして、集落のビジョン作りに取り組む時にどういう支援の仕方があるかを考えました。
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まず地元の建築家さんと共にワークショップを開いて、この中でいろんな企画やビジョンに持っていくまでにどんな人が関わるべきかを考えてみました。既存の組織の中にも、丹念に見ていけば現在に活かせるマンパワーの組織はあるはずなんです。
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美山でも、伝統的な集落の組織は今でもいろんな形で現在に引き継がれています。観光で成功したと言われる北集落の場合も、自分たちのマンパワーを活かしながら進めていく流れがありました。落合の場合も、こういう形で整理できると思うのです。
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これは今までの集落を維持してきたいろんな工程で、誰がどのように関わったかを家の単位、組の単位で整理したものです。もうできなくなった工事、ちょっとサポートしたら可能な工事、今でも大丈夫な工事にわけました(表は細かすぎて読めないので掲載していません)。 お金がなかったらできない工事もありますが、ちょっとしたボランティア的な作業で直していけるプロジェクトもたくさんあるんです。そういう整理をしていくと、労力的なサポートは何が必要かを整理できるのではないかと考えたんです。お金や技術がかかるタスクもいろいろありますけれども、案外簡単な労力的なサポートだけで行けるところもあります。
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この図式は、村(県、国)−住人・村のシステム−外部サポーターという三者を関連づけながらやっていく方法はないかなと考えたものです。
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村のおじいさんたちが斜面で、伝統材料の「ひしゃぎ竹」を行っている様子です。この作業は、おじいさんたちが復活させました。このほかにも、伝統的な食べ物も残しておこうと麦作りを始めたそうで、伝建指定がきっかけになって自宅にこもりがちだったお年寄りが楽しみながらこういう作業を始められたことは良かったと思っています。 ところで、写真に見える家は2年かかってやっと修復が終わった家です。今まででしたら修復するのに集落内の既存組織がすぐに材料を集めてきてサポートできました。ただ、これを「何に使うか」、「誰が管理するのか」を考えることにに時間がかかってしまいます。そういうことにも新しいサポートの仕方が必要とされるのかなと思いました。
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