発見された絵地図に見る近世大坂の漁村 |
旧篠山藩青山家絵図 |
青山家初代の青山宗俊は寛文2年(1662)に大坂城代に任ぜられ、延宝6年(1678)にその職を離れました。所領は摂津・河内・和泉・遠江・相模・武蔵を経て、寛文9 年(1669)に浜松藩に移封となり、延宝7年 (1679)に死去しています。享年76歳でした。
その次男の忠雄が後を継ぎますが、彼は若くして死去、宗俊の三男の忠重がこれを継ぎ、やがて丹波亀山藩に移封となりました。
忠重は家督を子の俊春に譲り、その後を俊春の養子の忠朝が継ぎました。その頃、篠山に国替えになって、宝暦8 年(1758)に大坂城代に就任し、在任のまま2年後に死去しています。ですから、家系としては2回目の大坂城代への就任でした。
篠山藩青山家文書である近世前期の大坂周辺絵図は、作成の時期から見ると、大坂城代をしていた初代の青山宗俊が収集したものと考えられます。それが篠山にあり、今も篠山の教育委員会が管理しているのですけれど、篠山の資料じゃないから長い間誰も分析してなかったらしいのです。それをたまたま見つけた方がいらしたというわけです。
この絵図は寛文2年の頃ですから、江戸時代のとても早い時期の大坂の絵図になるのです。初代から代々受け継がれ、浜松から丹波亀山、そして篠山にたどり着くという長い旅をしてきた資料になるわけですね。
大坂町中並村々絵図 承応・寛文のころ(1652〜1673年) 国会図書館蔵 |
城州・和州・河州・摂州・江州巡見川筋絵図 寛文期(1665〜1671年) 青山家所蔵 |
畿内流域図と青山家絵図の関係 |
城州・和州・河州・摂州・江州巡見川筋絵図と河村瑞賢の視察行程との関係 |
この緑の点線(河村瑞賢が歩いたルート)と赤の点線(青山家の流域絵図)が、池田川川筋を除けばほぼ重なります。このことは、幕府の調査が行なわれる前に、地元大坂では前もって調査の準備が行なわれていたことを示しています。その絵図を青山宗俊が持っていたわけです。青山宗俊が大坂城代の職を離れたのが延宝6年(1678)、幕府の調査が行なわれたのが天和3年(1683)ですから、数年前には調査対象の流域図が作られていたことになります。このことは、地元大坂では淀川の治水が大きな問題となっていたのですが、幕府の対応が延ばし延ばしになっていたことを示していると思います。
河村瑞賢は、畿内河道を視察して調査結果を作図し、京都で待機していた稲葉石見守等に報告したといわれています。身分の高い人は、現場に出なかったのですね。
大坂町中並村々絵図と城州・和州・河州・摂州・江州巡見川筋絵図との関係 |
大坂河口絵図 寛文10年(1670) 青山家所蔵 |
大坂河口絵図 寛文10年(1670) 青山家所蔵(図8を少し拡大) |
「小濱孫三郎領」とあるのは、旗本で摂津の国の領主だったそうで、宝永4年(1707)に新潟の阿賀野川河口部にある「沢海(そうみ)」という所に移封されています。このあたりも治水が重要な地域だと思われるから、この旗本は勤務地を変えられたんでしょうね。当時のお侍さんは、現代の公務員とよく似ていることが推察できます。
絵図をさらに拡大して見ると、細かくいろいろ書き込まれているのが分かります。
大坂川口絵図・部分 寛文9年(1669) 青山家所蔵 |
大坂川口絵図・部分 寛文9年(1669) 青山家所蔵(少し拡大) |
赤く記されているのは「御普請場所」、つまり、建設中とか整備中という意味です。赤い印が福島川(今の堂島川)や伝法川の延長上の海上に点在しており、埋立て工事ではないかと推察されます。
大坂川口絵図・部分 寛文9年(1669) 青山家所蔵(もっと拡大) |
それぞれの島も名前と大きさが尺で示されています。いろんな情報が書いてあるのがなかなか面白い。
実は元々の図が215センチ×201センチでけっこう大きいのです。最近では地図もデジタルで収録すると、モニター上で詳しいところまで読めるというメリットがありますので、昔の絵図もいろんな情報が読みとれるという面白さがあります。
特権を持った漁民(大坂河口絵図 寛文10年(1670)) |
昔、大坂の沿岸部には特権を持った漁民が存在していました。佃村と大和田村です。
エピソードとして語られているのは次のような話です。家康がまだ浜松在城の頃、関西に来て摂州多田御廟と住吉神社に参詣しようとしました。それが1586年のことで、まだ徳川ではなく豊臣が天下を握っていた頃ですね。この頃、住吉神社は多くの武士から信仰を集めていたようで、秀吉が祈願したり秀頼が1万句の連歌興行をやってみたりと、豊臣・徳川のいずれにもゆかりのある神社だったようです。多田御廟は現在の川西市にありますが、ここは摂津源氏発祥の地だそうで、源氏末裔を名乗る徳川氏としてお参りに行ったようです。
家康が南の住吉神社から多田神社に行こうとしたのだが、神崎川を渡るのに難儀していたところ、佃村と大和田村の漁民が漁船を出して渡してくれたのだそうです。それを家康はずっと感謝の気持ちを持っていたということで、後に将軍家が二つの村に漁業の特権を与えることになったのです。
絵図を見ると、佃村、大和田村に集落が描かれています。濃い色で描かれている線が先ほど説明したミオ筋、草のように描かれているのは葭なのか海草なのかはよく分かりません。この部分は潮に浸かったり乾いたりして、やがて葭原になって広がっていくのだと思われます。(葭:関東では「アシ」、関西では「ヨシ」が一般的)
佃村・大和田村(特権を持った漁民) |
氏神住吉神社(現・田蓑神社)の境内には東照宮を祀って、この特権の証文をご神体として祀っているそうです。実は本物は江戸の佃にあって、こちらにあるのはコピーらしいということですが。
漁師方五カ村組合(野村豊著『漁村の研究』による) |
この本は文化2年(1805)に書かれた「樽本家」所蔵の文書を研究されたものです。この中に、五カ村組合から代官役所へ差し出した文書のことが出てきます。五カ村とは、野田村・難波村・九條村・大野村・福村のことで、それに佃村・大和田村を付け足すと、この頃にはこれらの村が漁業を行なっていたことがわかります。野田村は中でも一番古い漁村で、元弘・建武(1331〜1338)の頃には天皇に魚を奉納したという記録があります。
樽本家文書によると、18世紀初頭から半ばまでにはこれらの村が税金を払って漁をしていたことが記録されているようです。ですから、これ以前に遡ってずっと前から漁をやっていた可能性もあるわけですね。
寛文6年〜貞享元年(1666〜1684)の絵図 「大坂町中並村々地図」国会図書館蔵 |
五カ村の位置 「大坂川口絵図」寛文9年(1669) |
大阪の漁村の変遷(『京阪地方仮製二万分一地形図』明18-23(1885-1890) |
緑色の点線で記した地域は、野村さんが書いた『漁村の研究』に出てくる昭和30年代の漁村のエリアです。
佃村・大和田村は「千舟地区」となっていて、昭和30年代にもまだ漁業を続けていたようです。大野村・福村もそれぞれ「大野地区」「福地区」とされて漁業を続けていた様子が分かります。しかし、野田村・九條村・難波村は昭和30年代には漁村としては消滅しています。しかし、埋立地の「出先地区」「住吉地区」「此花地区(伝法・玉川)」「長柄地区」が新しく漁業をしている集団として昭和30年代にあげられています。
ですから、大阪の漁村はずいぶん内陸に閉じこめられた感じになっていますが、昭和30年代になってもまだ漁業を続けていたようです。川沿いに漁業を続けてきたということが分かります。一方で野田・九條・難波は漁業から離れていきました。
新しい漁業地区は、以前の漁業地区から人が移ってきたのではなく、岡山とか四国などよそから来て形成されたようです。
現代でも「大阪市漁業協同組合」は存在しています。67人が在籍し、125隻の船があります。ちなみに図は明治期の地図ですから、現組合の場所は海上に記されています。その後に埋め立てられた地域です。これを見ても、市街地がだんだん外に向かって広がっていった様子が分かると思います。
野田村(『京阪地方仮製二万分一地形図』明治18-23(1885ー1890)、樽本家所蔵文書、文化2年(1805)) |
野田村は、14世紀頃から漁業を営んでいて、吹田にあった光厳院(1313-1364、南北朝時代の初代北朝天皇)の別業所に魚を奉じたと記されています。また、足利将軍や石山本願寺、豊臣秀吉にも魚を奉じたという逸話もあり、古くから漁業を営んでいた村だそうです。
野田村は鰯網で稼いでいたようで、享保3年(1718)からは今で言う税金に当たる「鰯網運上銀」を上納していました。また、野田村のお百姓は農作の合間に、小舟で中津川・神崎川・淀川沖に出向き、蜆・蛤を獲っていました。
文化2年の頃には、117軒、216人が漁業を行っていたと文書に記されています。
難波村(『京阪地方仮製二万分一地形図』明治18-23(1885ー1890)、樽本家所蔵文書、文化2年(1805)) |
これ以外にも零細・小漁の者が数十人いて、木津川川口・安治川川口で蜆・蛤・あみざこ(醤蝦雑魚)・鮒・鯊(はぜ)・鰻・ゑぶな(ボラの幼魚)を獲っていました。中水域の魚とか浅いところにいる魚を主に獲っていたわけですね。大阪湾はよく「ちぬの海」と言いますが、チヌの漁はでてきません。「ちぬの海」のチヌは魚の意味ではないように思います。
九条村(『京阪地方仮製二万分一地形図』明治18-23(1885ー1890)、樽本家所蔵文書、文化2年(1805)) |
ここは東西南北に海と川のある村で漁業には非常に好都合だったので、次第に漁民が増加しました。やがて漁場の混雑を招くことになってしまいました。それを取り締まるために、延享3年(1746)から運上銀を上納させることになったようです。
大野村(『京阪地方仮製二万分一地形図』明治18-23(1885ー1890)、樽本家所蔵文書、文化2年(1805)) |
福村(『京阪地方仮製二万分一地形図』明治18-23(1885ー1890)、樽本家所蔵文書、文化2年(1805)) |
106軒、117人の漁民がおり、享保3年(1746)から運上銀を上納しています。
佃村・大和田村(『京阪地方仮製二万分一地形図』明治18-23(1885ー1890)、樽本家所蔵文書、文化2年(1805)) |
佃村の漁師は、肥やし舟や借り舟で人を雇って漁をすることもありました。漁と言うよりは経営をしていたようですね。また、千抱操網を備前国児島郡の漁師に稼がせたりして、佃村の横暴は眼にあまるものがあった…これは野村さんの本に出てくる言葉です。
新田と漁業(野村豊著『漁村の研究』による) |
〈新田開発場においては、地先へ葭を植え付け根杭を打ち、土砂を堆積させて海を浅くしていくのである。この地先の葭の根や杭の付近は、魚の隠れ場所として好適であるので好漁場となる。そこへ漁師が出かけていくからせっかく植え付けた葭の根が荒らされることになって、新田請負の者から苦情がでることになる。明和6年(1769) 4月、注意のお触れが出た。無株・無運上の闇漁師はこのようなお触れを無視して漁に行き、そのとばっちりが組合五カ村漁師に来る〉。
〈明治初年においても、新田開発場地先の海中に粗朶を沈めてその上に石を沈め、さらに杭を打つと、そこに土砂が溜まり、また粗朶・石を沈めて杭を打つ事を繰り返していくと、5〜6年間で2メートルぐらいの堆積が出来て堤防になったという。この堤防の内側が水溜まりの池となり、ハゼ・フナ等が多数生息して絶好の魚釣り場所となったと言われる〉。
上流から流れてくる土砂を使って、自動的に埋まっていく仕組みを活用して新田の埋め立ての仕組みが出来上がっていたようです。だから埋め立てをしなければ、どんどん浅くなっていくという逆の現象でもあるわけです。